もう半分はグルダのせい

 

 

 カルロス・クライバーと並ぶぼくのヒーロー、フリードリヒ・グルダ。

 

 

 ぼくが三十五歳にもなってピアノを習いに行くなどという酔狂を始めた理由の半分はモーツァルトにあり、あとの半分はグルダにある。

 

 

 でもグルダの音楽にちゃんと出会ったのは、没後ずいぶん経ってからだった。 どうして存命中、この人の音楽にちゃんと接する機会がなかったのかと思う。

 

 

 宇野さんはグルダをあまり高く買っていない様子で、著作では推薦盤に挙げるどころか名前すら出てこない。 ほぼ完全スルー。 まずそれが大きかった。 手元にある1994年刊行の音友ムック 「クラシック現代の巨匠たち」 の中でも、ポリーニや弟子のアルゲリッチが4ページを割かれているのに対し、師であるグルダは1ページだけの扱い (ミケランジェリでも1ページですが)。 またグルダの来歴においてジャズへの傾倒は大きなウエイトを占めているため、当時のぼくにはクラシックとジャズの二足のわらじを履いた、なんとなく二流ぽい人という印象しかなかったのだ。 もったいない。 ああもったいない。

 

 

 ただそのころはモーツァルトもまだよく分からなかったし、さらにはピアニストという人種にもあまり関心がなかった。 もしグルダの弾くモーツァルトを聴く機会に恵まれていても、たちまち惹きこまれていたかどうか、自信はない。 出会うべくして、おっさんになってからぼくはグルダと出会ったのだ。

 

 

 春の日だった。 YouTubeでモーツァルトのピアノ曲の演奏動画を色々と聴きあさっているうち、なんとなくクリックしたその動画では、トルネコみたいな太ったおっさん、それもどう見ても普段着のおっさんがオーケストラを前にしてピアノに向かい、椅子から乗り出したり立ち上がったり、まるで宴会の余興のごとき気楽さで、ピアノ協奏曲第26番 「戴冠式」 を指揮し始めた。

 

 

 

 

 衝撃だった。 なんというフリーダムなおっさんだ。 トルネコがふしぎなおどりをおどっている。 さらに衝撃だったのは、その演奏がどう聴いても素晴らしいんである。 2分半過ぎ、独奏ピアノが始まってからの音のきらめきといったらもう、モーツァルトの虹色の音楽がグルダのピアノによってさらに光を帯びたようで、極上にハッピーな気持ちになってくる。

 

 

 なんたってグルダは、演奏してる姿がかっこいい。 どのピアニストよりもかっこいい。 軽妙洒脱というか、たまらなく粋だ。 おまけに弾きながら鼻歌を歌うので、たいていの音源にはピアノと一緒にその鼻歌も記録されているのはお決まり。

 

 

 グルダはよく演奏中、客席のほうを見て嬉しそうに笑いかける。 それは 「どうだ俺の演奏、いいだろう」 という自己顕示ではなく、 「どうだ音楽って、本当に素晴らしいだろう」 と語りかけているようにぼくには見える。

 

 

 「クラシックとジャズ、ふたつの世界に生きた人」 といつも決まって紹介されるグルダ。 ぼくが思うに、グルダにとってはクラシックとかジャズとか、そういう区分も実はどうだってよかったんじゃないか。 ただ 「音楽」 だったんだよきっと。

 

 

 グルダの演奏哲学はシンプルだ。 快楽主義的で、かっこよく、気持ちいい。 愛車は真っ赤なフェラーリで、女性が大好きで、腕時計は金ピカ。 いっけん軽いノリのオヤジに見えて、心にでっかい愛の海がある。 カッコイイとは、こういうことさ。

 

 

 そんなグルダになりたくて、そんなグルダになれなくて。 ぼくはきょうもピアノを練習する。 グルダみたいに弾くことは逆立ちしても一生かかってもできない。 ただグルダがピアノを弾く姿を見ていると、俺はなぜ音楽を聴くのかという根源的な自問に対するものすごーく大切でものすごーく単純な答えが、いつも必ずはっきり見えるのだ。