言葉なき歌、または宮崎駿は説明しない

 ☆ アカデミー賞受賞記念 ☆

 宮崎駿といえば活劇の人で、カーチェイスや飛行シーンにおいてその非凡なセンスが発揮されるのは万人の知るところであるがそれ以上に彼は何気ない、そう本当に何気ないカットに詩情をこめるのが上手いと思う。

 『天空の城 ラピュタ』 でぼくがいちばん好きなシーンは、パズーとシータがラピュタを後にして、遠ざかっていくラピュタをただじっと見送るあの場面。 だんだん小さくなり見えなくなるラピュタと、それを見つめる二人のカットが、実に4回もの切り返しを重ねて丁寧に丁寧に描かれる。 この間、音楽が鳴っているだけで、二人は一言も発しない。 しかしこのパズーとシータのまなざしに万感の思いが込められていることは、観客の全員が承知していることだ。

 ここでもし 「さよなら…ラピュタ…」 なんてセリフを言わしてたら、もう一気に興醒めのぶちこわしで三流作品に堕ちるところですよ。 正しく沈黙は金。

 宮崎映画の登場人物は、ここぞという時には黙る。 『となりのトトロ』 のあの日本映画史に残る名カット、サツキが初めてトトロに出会うバス停のシーンでも、セリフのない時間が長く続く (ここでは音楽もない)。 ようやく口を開いたサツキは傘の使い方について二言三言話すだけ。 いやもっと他になんか言うことないんかと。

 ぼくの大好きな 『魔女の宅急便』 のラストでは、キキに魔法の力が戻ったのにジジは 「ニャー」 としか言わない。 ここは解釈の分かれるところで、キキが成長した暗示としてジジとは話せなくなったと見るか、観客にはニャーとしか聞こえないけどキキには以前のように人語が聞こえていると見るか。 ぼくはキキの反応からして前者だと思う。

 宮崎駿は、余計な説明をさせない。 なぜなら粋じゃないから。 ポルコ・ロッソがなぜ豚になってしまったかという謎は本来あのフィルムにおける最大の関心であるはずなのに、そこには一切の言及がない。 なぜ千尋がこの豚たちの中に両親がいないことが分かったのかについても、何も語られない。 粋じゃないから。 ぼくはそういった演出のあれこれに、この監督の 「そんなこといちいち俺に言わせるなよ」 という照れと 「分かるやつだけ分かればいいんだ」 という尊大ともいえる絶大な自信とを、同時に感じる。

 北野武の映画も、もともとはそういう 「無粋な説明」 を省いたクールさが売りのひとつだったのにどういうわけか、本当にどういうわけか 『HANA-BI』 から過剰に説明的なセリフが乱発されるようになり、おかげであの映画はラストシーンだけが見どころの出来の悪いメロドラマになってしまった。 世界というマーケットを見据えて分かりやすい方向へと日和った結果なのかどうかはともかく、 『ソナチネ』 までの無愛想な作風にしびれた者としてはなんとも気恥ずかしいというか、にわかに受け容れがたい転向ではあった。

 『風立ちぬ』 を観る限り、この映画作家は往時の才能にまったく衰えを見せていない。 しかし宮崎駿は、北野武のような変節に至る前に自ら長編から身を引いた。 それはとても賢明な判断であったろう。