第九ラストの問題点と歳末感

 

 高校時代、第九のポケットスコアを購入し「フーム、あの音はこんなふうに書かれていたのか」と指揮者気どりで読みふけっていたぼくであるが第四楽章に一箇所、どうしても気になるというか腑に落ちない部分があった。

 

 それは終結部の大詰め、合唱が「歓喜よ、神々の美しき火花よ(Freude, schöner Götterfunken!)」と高らかに歌い上げる916小節からのところ



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 マルで囲ったところがその合唱を導く木管と弦楽器の下降音型であるのだが、

 

なぜベートーヴェンくんはここにスタッカートを付けているのか?? そんなふうに演奏している例を聴いたことがないし、これはいったい何???

 

という疑問なのだった。

 

 どの指揮者もここは思い入れたっぷりに、なだれこむようなレガートで締めくくりにふさわしい大団円感を強調していた。軽やかなスタッカートなど真逆であり、いかにもそぐわない。しかしながら楽譜にはしっかりとスタッカートが書かれている。古今ほとんどの指揮者が、見て見ぬふりをするかのごとく振る舞っているのである。

 

 後年、この謎は解けた。というか、スコアをよく見れば答えが書いてあった。Maestoso(荘重に)の横に記されたメトロノーム指定は四分音符=60。このとおりの速度で歌ってみれば分かるように、このMaestosoでベートーヴェンが意図した本来のテンポは現在ぼくらが聴きなじんだものよりももっと・ずっと・はるかに速く、このスタッカートはそのテンポに合わせて付けられたもので、なだれこむのでなく俊足で一気に駆け下りるようなスピード感が要求されているのである。

 

 つまり現在世界中で行われているほとんどの第九の演奏は、このマエストーソでのベートーヴェンの指定を完全に無視し、倍近く遅いテンポを勝手に採用しているという事実があるのだった。マジか。

 

 にわかに信じがたかったが、いわゆる往年の大指揮者でもアルトゥーロ・トスカニーニやエーリヒ・クライバーが確かにベートーヴェンの速度指示を忠実に守っているし、現役指揮者ではサイモン・ラトルや下野竜也といった面々が指定どおりのテンポで演奏している。だって楽譜どおりに演奏したらそうなるんだから。

 

 しかし、彼らの正しい(はずの)テンポによる演奏を聴いた現代の聴衆の多くはこう感じてしまう、「速すぎる」「なにこれ早送り?」と。ぼくらは、この楽譜どおりのテンポ感を受け入れるには、もはやあまりにも「遅いマエストーソ」に慣れすぎているからだ。

 

 この「遅いマエストーソ」がもたらす大団円感たるやハンパでなく、とくに第九が年末の定番となっている日本では、最後の「フローーーーーイデ、シェーーーーーーーーーーーネーーール、ゲーーーーッテルフーーーンケーーン」に至って師走感・年末感は極限に達し、ああ今年も終わりでんなと一年を回想するクライマックスの瞬間を迎える。毎年第九に通っている人も、招待券で連れてこられて第三楽章まで寝ていた人も、人類兄弟みな等しく一時間以上かかったこの大曲の終わりとともに一年が暮れていくのをしみじみ感じるのだ。

 

 したがって、とりわけ本邦においては、年末感を極大まで増幅するために、このマエストーソはどうしても遅すぎるほど遅いテンポで演奏されなければならないのだった。スコアどおりの速いテンポでは、待ちに待ったピークの瞬間がわけもわからないうち高速で過ぎ去り、年末に味わうべき絶頂がワヤになってしまうのである。みんな忙しい忙しいと言いながらなんやかんやで歳末が大好きなのだ。第九の最後で、刹那の総決算感にどっぷりひたりたいのだ。

 

 それゆえ日本で本来の「速いマエストーソ」が広く受け入れられるには相当長い、百年単位の時間が必要な気がするし、受け入れられることはないような気もする。

 

 ベートーヴェン大先生としては、一世一代のつもりで書き上げた渾身の大作がなぜか極東アジアの島国で年末の風物詩として定着するなどとユメにも思わなかったであろうし、年末感とか知らんがな、お前らわしの書いたテンポどおりやれやと言いたいに違いない。

 

 大先生にはたいへん申し訳ないが、結論といたしましてはぼくも正直、めちゃくちゃ遅いマエストーソのほうが好きである。とくに2020年は世間的にも個人的にも色々なことがあって、どれだけ遅くとも振り返る時間が足りない。大晦日に放送される今年のN響第九のラストはどうだろうか。遅いといいな。思い出すための時間を少しだけぼくにくれ。