朝比奈隆が最後に遺したブラームス

 

今年は久しぶりに朝比奈隆のCDをあれこれ聴きなおした。その中で「いいなこれ」と思ったものが、ひとつは大阪フィルとスタジオ録音したブルックナーの交響曲第3番。もうひとつは最後のブラームス・ツィクルスとなった新日本フィルとのブラームス交響曲全集である。このブラームスの、とくに第1番がめちゃくちゃにいいので、それを書き記しておきたいと思う。

 

交響曲全集 朝比奈&新日本フィル(3CD) : ブラームス(1833-1897) | HMV&BOOKS online - FOCD-9206


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2000年9月~2001年3月、いずれもサントリーホールでのライヴ録音。

 

以前も「朝比奈隆はベートーヴェンよりもブルックナーよりも、ブラームスがいい」ということを書いたのだが、これは本当によくって、「本当に朝比奈の指揮? しかも最晩年の!?」とびびってしまうほど良いのである。

 

この第1番の録音には、あそこがいい、ここの部分がいい、というのがない。最初から最後までずっといい。テンポ、楽器間のバランス、フレージング、あらゆるすべてが過不足なく「こう鳴ってほしいな」とこちらが思うそのままに鳴ってくれる。

 

それでもひとつ挙げてみるなら、終楽章の最後、コラール主題がファンファーレで帰ってくるあの感動的な部分。あそこは力みすぎるとわざとらしくなっていけないし、かといって素っ気なくもできない、難しい箇所である。朝比奈はここを実にしなやかに聴かせる。まさに名人上手の至芸、ブラームスを自家薬籠中のものにした堂々たる大家の棒だ。

 

そんなわけで、ぼくは冗談抜きにブラームスの交響曲第1番はこのCDさえあればいいとすら思ってしまった。このとき朝比奈92歳、指揮もかなり不明瞭になっていた時期で、オーケストラの自発性が老匠をフォローしていたところも大きかっただろうと思う。それにしても演奏から聴こえてくる若々しい情熱はどうだろう。92歳のジジイにこんな音楽を奏でられては、あの独特のしわがれ声で「君なんかまだ若いんだから、四十やそこらでしょんぼりしてる場合じゃないだろう」と背中を叩かれているような気がしてくるじゃないか。

 

ぼくは朝比奈の存命中、ベートーヴェンとブルックナーは生で聴いたけれどブラームスには行かなかった。もったいないことをしたものだ。当時はまだ鼻垂れ小僧でブラームスの良さがよく分からなかった。だが今は分かる。おっさんになるとブラームスが書いた音符のひとつひとつが心をふるわせ、「お前は俺か」と言いたくなるほど胸にしみてくる。少し長いが、朝比奈がブラームスの音楽について語った言葉を引用する。

 

「ブラームスの芸術というのは多分にセンチメンタルなのではないでしょうか。写真では髭をはやして恐そうに写っていますが、人格は非常に抒情的で感傷的な人だったのではないでしょうか。私はセンチメンタルだということはちっとも悪いことではないと思います。年甲斐がないようですが、そういう感情はかえって若い人にはわからないんではないでしょうか。そろそろ人生の灯が消えそうになってきますとね、そういう情緒が非常に大切で、心の中の宝のようになってくるんです。」

 

ぼくはこの全集をジジイになるまでずっと聴き続けると思う。ジジイになって聴く朝比奈のブラームスは、きっとまた格別に違いないから。