宇野功芳先生ありがとう、いつも楽しい評論を書いてくれて…

 

 2016年が過ぎ去ろうとしている。ブーレーズアーノンクールなどクラシック音楽界にも大家の訃報があったが、ぼくにとってはやはり宇野功芳さんの逝去がいちばん衝撃だった。

 

■チャーミングなおっさん

 みなさんは、ブルックナーのスコアにおいてメゾ・ピアノ(mp)の指定がまったくと言っていいほど使われていない、その理由を御存知であろうか。

 ぼくは知っている。なぜなら宇野功芳が教えてくれたから。ブルックナーの初恋の相手はマリア・プフィッツナーという女の子だった。しかし熱烈な片思いはほどなくして爆砕、失恋の痛手を負ったブルックナーはそれ以降、彼女のイニシャルであるm・pを書けなくなったのだ―――。衝撃的な逸話だが、衝撃的なのは当たり前で、これはもちろん宇野さんの作り話である。あろうことか、宇野さんはこの与太話を『レコード芸術』誌の交響曲新譜月評欄でわざわざ書いていた。クラシック音楽評論家という一般には堅苦しい職業のイメージとはかけ離れた、なんというふざけたおっさんであろうか。

 

■「メータのブルックナー

 宇野功芳といえばメータのブルックナー。メータのブルックナー抜きにして宇野功芳は語れない。

 「メータのブルックナーなど聴きに行くほうが悪い」。有名なこの文言は宇野さんの代表的著書である講談社現代新書『クラシックの名曲・名盤』に書かれたもので、本書は氏のライフワークとしてその後も増補改訂がくりかえされ、現在売られている最新版にも「メータのブルックナー」の一節はもちろん語句を変えることなくそのまま記載されている。だって、これがなければ、この本がこの本でなくなってしまうようなものなのだから。

 冷静に考えてみると、「メータのブルックナー」にせよ「小澤のエロイカはまるでスーパードライ」にせよ、いったい皆、何十年前の文章をいまだに引っぱり出して遊んでいるのか。小澤スーパードライの件だって、ぼくはリアルタイムにレコ芸で読んだ記憶があるけれども、それだってもう20年以上前の話だぜ。いち音楽評論家の発言がこれだけ人口に膾炙した例としては、これ以外だと吉田秀和ホロヴィッツ評「ひびわれた骨董品」くらいなものではなかろうか。

 宇野功芳『クラシックの名曲・名盤』以前にも、クラシック音楽を初心者に分かりやすく解説しようというやさしい入門書の類いはあった。けれども、誰も宇野功芳のようなやり方でクラシック音楽を紹介することはできなかった。当時、宇野功芳ほどクラシックをポップに語れる評論家がいなかったのだ。

 これからクラシック音楽を聴きはじめようという人に、作曲家の生い立ちとか、ソナタ形式や調性がどうとか、そんな知識は必要ではなく、ただ最高の曲と最高の演奏はこれだと提示し、そのすごさについて語ればよかった。

 宇野功芳は、誰よりも的確にそれができた。というより、おそらくこれ以外のやり方を知らず、氏にとって唯一だったこの方法は宇野節と呼ばれるようになり、書籍は売れて版を重ね、その言葉はクラシック音楽ファンに浸透していく。

 ここで危険なのは、実際ぼくにもそういう時期があったが、宇野さんの評論を読んでいるうち、いつしか自分も宇野さんと同じ鑑賞眼を手に入れたような錯覚に陥ってしまうことにある。宇野さんがカラヤンについて述べた言葉「カラヤンの演奏でクラシック音楽に入門するのは良いが、初歩の段階を過ぎたら、他の指揮者に移っていかなければならない」は、そのまま宇野功芳の評論にもあてはまる。宇野さんの推薦盤を聴いて「ちょっと違うくね?」と感じた瞬間こそが、まさに初心者を脱する瞬間といえるのだ。

 

■君がいなくちゃケンカできない

 アンチ・カラヤンの急先鋒と思われがちだった宇野さんであるが、そこは是々非々で、良いと感じた演奏については意外にキチンとほめていて、カラヤン指揮によるベートーヴェンの『三重協奏曲』など、言葉を尽くして絶賛している。交響曲については最後まで点が辛かったが、そんな宇野さんのカラヤン批判も、帝王没後はしだいにトーン・ダウンし、近年ではカラヤン特集のムック本に寄稿するまでになっていた(以前なら考えられない)。その中で「カラヤンが亡くなってから、クラシック音楽界は火が消えたようになってしまった」「カラヤンには功罪あったが今となっては功のほうが大きかった気がする」と、さみしさすら漂わせている(以前なら考えられない!)。俺ぁよぉ御前さんが大嫌いだったけどよぉ、御前さんがいなくなってから、なんだかちっとも酒がうまくねぇんだよ、ちきしょうめ、って人情話みたいな有様ではある。

 

■キャラクター化した演奏家たち

 もうひとつ、宇野功芳の功罪は、演奏家それぞれの個性や特色を、まるで漫画の登場人物のようにキャラクター付けしたことにある。カラヤンは外面だけ豪華で無内容。フルトヴェングラーは精神性。トスカニーニはイン・テンポで楽譜に忠実。メンゲルベルクはロマンティック。朝比奈隆は不器用で愚直。小澤征爾は軽薄。バックハウスは無骨で深い。ハイドシェックは天衣無縫。ポリーニはうまいが浅薄。シゲティは下手だが深遠。などなど、実際には演奏家の音楽観というのはこんな単純化できるものではないとはいえ、これがとてつもなく効果的だったのだ。なにしろ宇野さんの著作にかぶれていた頃のぼくは、トスカニーニメンゲルベルクの音源など一枚も所有していなかったにもかかわらず、彼らの演奏の性格がどういうものなのか、はっきり知っていたのだから。

 個人的に、評論家・宇野功芳の最高の仕事として、バイロイトの第九のライナーを挙げたい。お手元にある方はぜひ一度読み返していただきたいが、最初から最後までこれぞ宇野功芳、これぞ宇野節と言いたくなる文章がぎっしりつまっており、もうよだれが落ちそうになる。ぼくなど何百回読んだか数えきれず、もはや演奏よりもこのライナーを愛しているほどで、まこと、批評が対象を超越した稀有な例といえよう。これを超えるライナーは今後もけっして現れまい(あ、もういいですか)。

 

 ■『指環』はいいぞ

 迷演・珍演・怪演揃いの宇野功芳指揮・新星日響によるオーケストラ・リサイタルの中でも、ワーグナーの『ニーベルングの指環』ハイライトは、ガチで良い。ちなみに、正直に申し上げてベートーヴェン交響曲シリーズはキツい。一聴おもしろくはあっても、繰り返しの鑑賞に耐えうるシロモノとはとても言えないが、『指環』は迫真の出来栄えで、この作曲家の豊潤な音のスペクタクルを堪能できる。「ブリュンヒルデの自己犠牲」掉尾を飾る愛の救済の動機まで、本当に心のこもった演奏で、最終和音におけるティンパニの、まさにいのちのかかった最強打(!)も必聴だ。

 

■さいごに

 宇野さんとは、昨年の夏いずみホールでの「第九」演奏会終了後にお話させていただき、握手してもらったのが最後となった。実はその前にも一度、ぼくが高校生のとき、シンフォニーホールで朝比奈隆ブルックナー9番を聴いた帰り道、大阪環状線の車中でばったり宇野さんに出くわして、おそるおそる声をかけたことがあった。ところが、あまりに舞い上がっていたぼくはサインはおろか握手すらお願いするのを忘れ、そのまま宇野さんは次の駅で降りて行ってしまわれた。さすがにその時のことなど覚えてはおられなかったが、「では20年越しの握手をしましょう」と手を差し出してくださった。ぼくは、自分の青春のひとつの不協和音が解決したようで、本当に感激だった。

 

 14歳のぼくにクラシック音楽のおもしろさを嫌というほど教えてくれて、ありがとうございました。合掌。