遠すぎた一億五千万キロ

 

 過日。新幹線で東京へ向かう車中、あまりに良い天気だったため、スマホも見ずに飽きることなく空と景色をずっと眺めていたのだが、ふと、この速度であの太陽まで行ったらどのくらいの時間がかかるのだろうか、と思った。

 

 計算は簡単で、地球から太陽までの距離=1天文単位は約1億5000万キロメートル。新幹線の速度は時速300キロとしよう。1億5000万を300で割ると50万。つまり所要時間は50万時間である。50万時間を日に直すと約2万800日。2万800日を年に直すと約57年。答えが出ました。新幹線の速度で地球から太陽までは57年かかります。

 

 え、57年?

 

 ぼくは今45歳ですが、ぼくが生まれてからずっと、遠い遠い記憶の幼稚園、小学校中学高校、その後大人になってからの長い長い時間をこの猛烈な速度でノンストップで走り続けて、まだ全然到着できてない?? 太陽、遠すぎません???

 

 電卓は嘘をつかないし、太陽までの距離も子供のころから知っていたけれども、それでもこのスピードだったらなんとなく、まあ数ヶ月から長くて数年で着くんじゃない、と思わせるパワーが、新幹線の座席から伝わる轟音にはあった。だから、あらためて計算してみた答え=57年は衝撃すぎた。アンドロメダ銀河まで250万光年と言われてもスケールが大きすぎてどのくらい遠いのかまるでピンとこないが、いま自分が新幹線の車窓から見ている電柱や家やビルがひゅんひゅん後方へすっ飛んでいくこの速度はおそらく日常生活で体感できる最速のもの(飛行機は高高度なのでさほどスピード感がない)で、これで不眠不休で走って57年というのは、「実感」として遠すぎる。毎日見えているあの太陽が、そんなに遠かったなんて。

 

 思い起こされるのは若き日の恋。君はぼくにとっての太陽だった。あと少し、ほんの少しだけ手を伸ばせばもう君に届くような気がしていたのに、それはぼくの思い込みにすぎず、君とぼくとの間には1億5000万キロよりもっともっと遠い、はなから届くはずのない距離があったのだね…… だね…… だね……

 

 と著しく余計なことを考えてしまったのでぼくはさっさと電卓アプリを閉じ、現実に戻るべく東海道新幹線弁当の封を開け、ペットボトルの静岡茶をぐいと飲んだのであった。新幹線は小田原駅を時刻どおりに通過していた。

このアンダンテは寂しすぎるから……

 

 モーツァルトのピアノソナタK.545。誰もが知ってる有名な第一楽章アレグロに続く、第二楽章アンダンテがとてもとても好きだ。

 このアンダンテは、人生である。右手のメロディも一見明るく、左手はドソミソドソミソ。練習曲のような平明さに見えながら、モーツァルト晩年の作品だけあって、とてつもなく深い音楽であり、最初の1音から人生の終わりに秋の空を見上げるような寂寥感が漂う。ピアノ初級者でも弾けるシンプルな音符で、なぜこんな音楽が書けるのだろうか(なので、本当は初級者に弾きこなせる曲では到底ない)。

 あまりにも美しく、あまりにも寂しい。ゆえにぼくはフリードリヒ・グルダの演奏を聴く。楽譜どおり弾くと寂しくてたまらないこのアンダンテに、グルダは得意の自在な変奏と装飾音を加え、まさに夢心地の境地を音にして聴かせてくれるのです。

 人生は短く、儚いものかもしれないが、だからこそ、今の愛おしい瞬間を大切に生きなければいけない。グルダのこの演奏は、そう語りかけてくれているように感じる。相変わらずイカすぜおっさん。

結婚前夜、俺はずっとナンバーガールを聴いていた

 

 信じられないかもしれないが、ナンバーガールが最初に解散したとき、俺はまだ25歳だった。

 

 現在は45歳の夜更かしができないおっさんで、飲み会も17時集合の20時解散。「ねむらずに朝がきて ふらつきながら帰る」ことなど到底不可能なお年頃になってしまいました。

 

 25歳の俺と45歳の俺と、もちろん色々と違うが何がいちばん違うかというと、25歳の俺は独身だったが45歳の俺は結婚をしている。俺は思い出します。結婚する前の数週間、まもなく妻となる女性を助手席に乗せながら、俺は車の中でずっとナンバーガールを聞いていた。それも青春ギターポップの叙情色濃いファーストやセカンドではなく、最後のスタジオアルバムでありもっとも異形の作品『NUM-HEAVYMETALLIC』ばかり流していた。

 

 気の毒なのは妻である。まもなく夫になろうという人の運転で出発するとカーオーディオから再生一番「気をつけぇーー!!!」と奇怪な男の蛮声が響きわたり、奇怪なギターサウンドに乗せて奇怪なボーカルが「鉄の小太鼓どんしゃん鳴らし 鎖の三味線 春の声」など奇怪な歌を歌い上げる。もっと結婚ムードを盛り上げるディズニーの主題歌とか、なんかいい感じの洋楽ナンバーとかそういうのが流れてくるのかと思えば、春猫音頭だの無常節だの、私はいったい何を聞かされているのか、どういう気持ちで聞いていればいいのかと、妻は無表情のまま訝っていたに違いない。

 

 おそらく、あれは俺なりのマリッジブルーだった。25歳、若さとエネルギーを持て余し、得恋も失恋もいまだ知らなかった孤独と懊悩まっただ中の時代。その青春の記憶と分かちがたく結びついた『NUM-HEAVYMETALLIC』というアルバム。結婚という人生の一大転機を前に、束の間、あのころのomoideが懐かしくなったのかもしれない。そんな気がする。なればこそ、その青春、25歳の俺を供養するための念仏は『NUM-HEAVYMETALLIC』でなければならなかった。

 

 ギターによる焦燥音楽。断層を超えてしまった俺に、当時と同じ感覚でナンバーガールを聞くことはもうできないのかもしれない。そんな聞き手の思いを知ってか知らずか、2019年に再結成したナンバーガールは2022年冬、再び解散した。また20年後くらいに再々結成して、俺のいちばん好きな『ミニグラマー』を聞かせてくれたら嬉しいと思う。

 

 ちなみに妻とのドライブ中にはZAZEN BOYSもときどき流していますが、「パンツ!! パンツ!!」と叫ぶボーカルに妻は笑いながらヘンな歌とは言ってくれず、無表情で聞いています。

宮本浩次『縦横無尽』ツアーに行ってきた話

 

 宮本浩次の歌はすばらしい。

 

 椎名林檎をして「日本を代表する銘器」と言わしめる宮本浩次の声。強く太く、繊細で伸びやかで、なによりも、澄みわたった秋の空のような透明感をたたえるあの声。この透明感こそ、宮本浩次の歌を唯一無二たらしめる大きな要素だと、ぼくは思う。

 

 宮本浩次は嘘がつけない・嘘が歌えない男である。その不器用なまでの実直さゆえ、ときに軋轢を生んで騒動になってしまうことがあっても、それこそが彼が信頼できる表現者である証であると、ぼくは思う。

 

 だから宮本浩次は、エレファントカシマシとしてのデビューから現在のソロ活動に至るまで、もうずっと、あきれてしまうほど「たったひとつのこと」だけを歌っている。レコード会社を移籍しても、プロデューサーが入っても、打ち込みを多用しても、いかなる装飾を施そうとも隠せない圧倒的な歌の才能と存在感があり、その一点において驚くほどブレがない。宮本浩次の歌はいつもど真ん中で宮本浩次の歌である。

 

 ソロデビュー以来、スカパラ、椎名林檎、横山健らとのコラボを次々と成功させ、さらに『ハレルヤ』『冬の花』『夜明けのうた』といった国宝級の名曲を休むことなく繰り出す底知れぬ才能でソロ最初のアルバム『宮本、独歩。』を世に問い、女性ボーカル曲をカバーした2枚目のアルバム『ROMANCE』では、それまで宮本浩次を知らなかった世代にもその凄味のある歌唱力を知らしめた。ぼくの実家の父親(演歌しか聴かない)が、テレビに出ていた宮本さんを指して「こいつ、歌うまいねん」と感心していたほどだ。

 

 そして満を持して昨年10月にリリースされたソロ3枚目のアルバム『縦横無尽』。これがまた、ここへきてキャリア最高傑作を更新していると言わざるを得ない作品であった。「自信がある。聴いてくれ」のコピーは伊達ではない。

 

 1曲目『光の世界』で意外なほど静かに優しく幕を開けるこのアルバムは、初期スマッシング・パンプキンズを彷彿させる硬質サウンドの2曲目『stranger』で一気にボルテージを上げ、階段を一歩ずつ踏みしめながら上っていくようなBメロがたまらなく感動的な『この道の先で』、歌謡曲とロックミュージックの魂が融合した『浮世小路のblues』、多幸感あふれる月夜の散歩ソング『十六夜の月』と、これまた重文指定級の名曲が畳みかけるように投下され、柏原芳恵のカバー『春なのに』でようやく一息、後半も新機軸に満ちた意欲的な楽曲がテンションとクオリティを保ったまま続き、ラストの『P.S. I love you』まで一気に駆け抜ける。ぼくが千鳥ノブならアルバムの中盤でもう「ちょっと待てぃ!」ボタンを押して「お前はとんでもないもんを作ったど」と言いたいレベルである。いやー、どの曲もいいけど『stranger』本当にかっこいいすよね。

 

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 前置きがたいへん長くなったが、そんな宮本さんの縦横無尽47都道府県ツアー@三重に行ってきた。ちょっと前までは一年に一度はエレファントカシマシのコンサートに行っていたのに、遡ってみるとなんと2017年3月の大阪城ホール以来、5年ぶりに聴く宮本さんの生歌である。コロナ禍があったとはいえ、こんなに日が経っていたとは思わなかった。

 

 ライブは最高だった。どの曲が良かったとか語る気にならないくらい、良かった。宮本さんはほとんどギターを持たず、ずっとハンドマイクで歌っていた。そうだこれでいい。宮本浩次はハンドマイクが圧倒的にかっこいい。

 

 生でステージを見てやっと気づいたことがあって、エレファントカシマシのときは宮本さんがボーカルもとりつつバンドのアンサンブル全体を監修・主導しなければならないが、このツアーでは本邦指折りの手練の面々がギター、ベース、ドラムを務め、司令塔・小林武史がそれを統括することで、宮本浩次が歌だけに集中できる環境がととのえられているのだ。凄腕の演奏陣が宮本浩次という才能に全てを捧げ、宮本さんは最高の歌唱でそれに応える。そういうことだったのか! なんという贅沢な……。

 

 「ゆこう ゆこう 大人の本気で さあ立ち上がろう」

 「愛って何だかわかった日が きっと新たな誕生日」

(『P.S. I love you』)

 

 こんな歌詞を照れなく真っ直ぐに歌う55歳の宮本さんと、それがすっと胸に落ちてくる45歳のぼくがいる。あれもこれも手に入れたかった青春時代ではもうない。でも流れ流れて漂う今も捨てたもんじゃない。大人の旅路は着の身着のままがいい。本当にそうですよね。

 

 宮本さんがソロデビューすると聞いたとき、ぼくは実のところ少しだけ抵抗を覚えたものである。え、今さらソロ? と。しかし宮本浩次ソロのコンサートを見終えて今、めちゃくちゃ好きなエレファントカシマシのことを少しだけ忘れそうになっていた。いや忘れてないけど、それくらいすごいものを見せられて今でも余韻が抜けない。

 

 開演直前、1階16列の席から後ろを振り返ると、キャパ1900の三重県文化会館大ホールが3階まで満席になっているのが見えた。みんな普段の日常ではどこにいらっしゃるのか分からないが、二十代の若者から六十七十とお見受けするシニアまで、こんなにも多くの老若男女が宮本浩次の歌を必要とし、今ここに集まっている。ぼくはそれだけで、もう胸がいっぱいになってしまうくらいうれしかったのである。

 

 ステージから何度も頭を下げる宮本さんに、今更だけど感謝してるのは俺の方だぜ……と言いたかったのは、きっとぼくだけではない。

 

 浮世小路の俺たちには、真実のあなたの歌が必要だ。

 

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 P.S. 小林武史さんが思ってたよりデカくてびびった

今年買ってよかったもの

 

 趣味は銭湯とピアノとインターネットで、ときどき宮地さんがテレビに出ると喜ぶ人生を送っており消費行動をあまりやらないのですが、それでも今年はわりに色々とものを買った気がする。

 

・ニトリのLEDランタンf:id:nijinosakimade:20211231231915j:image

 寝るときは真っ暗が好きなので、夜トイレに行くときこれがあると非常に便利。明るさは三段階に調節できて間接照明としても有能。ジジイになると蛍光灯の明かりがきつく感じることがあるため、21時以降はテレビとこのランタンを灯しておくとちょうどいい感じの落ち着きになる。

 

・リカーマウンテンのおつまみセレクションこつぶピー

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 常備すべきお菓子シリーズ。とくにこつぶピーが良い。ウイスキーのお供にも最高。視界に入るとつい食べてしまうゆえ、間食の域を超えてお夕飯に影響するのが難点といえば難点。

 

・ニンテンドースイッチf:id:nijinosakimade:20211231232038j:image

 ずっと欲しいと思いつつ品薄で手に入らなかったのが近所のエディオンでひょっこり売っていたので無事入手。最新のゲームは全くやらずに初代F-ZEROとアーケードアーカイブスのスターフォースばかりやってる。

 

・セシールのブーツカットジーンズf:id:nijinosakimade:20211231232051j:image

 ブーツカットジーンズとかいう絶滅危惧種なものを愛好していて、2000年代初頭からずっとユニクロの『ビンテージブーツカットジーンズ』を履いていた。ユニクロが生産をやめてしまってからは新品が手に入らず、持っているぶんを大事に使ってきたのだが、元々が女物で股上がとても浅いのに加えて洗濯のたび少しずつ縮むことにより徐々に圧迫されてゆく金玉収納スペースに非常な危機感を覚えていた折、配偶者が見ていたセシールの通販カタログにブーツカットジーンズを発見、注文してみたところこれは俺のために作られたのかと思うほどしっくりきてしまい、毎年のように買い足して同じものを10本以上持っている。

 なので今年「も」買ってよかったもの。セシールがこれの生産を止めてしまったら本当に危機。

 

・クロックスのサンダルf:id:nijinosakimade:20211231232105j:image

 なんとなく、ウェイ系御用達アイテムのように思えて手を出さずにいた。いざ使ってみるとまあ便利なこと。

 人間工学的にもよく考えて設計されており、とにかく履きやすく、脱げにくい。多少の駆け足でもビクともしない。履き心地がほぼ靴。洗うのもラクですぐ乾く。

 廉価な類似品も流通していますが、おそらくクロックスのこの絶妙なフィット感は達成できていないんじゃないかと思う。これを買ってからスニーカーの出番が激減しました。

 

 以上、オシャレという概念が終わっているためオフの日は1年じゅう上記ブーツカットと白シャツしか着ないのですが、来年は自分に合う白シャツを色々探してみようと思います。みなさま良いお年を。

 

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おまけ……

今年買ってよくなかったもの

・H-N○XT(U-NE○Tのアダルト動画定額見放題サービス)

 エッチな動画もサブスクの時代やと登録してみたものの、気に入ったら一年中そればかりの習性につき5万本見放題のメリットがまったく活かせず、大人の事情(?)でブラウザからしかログインできない仕様も地味に面倒で、これで月額2千いくらは慈善団体に寄付したほうがええんとちゃいますかと我ながら思うに至り、解約。

 

常に正しい音に行く

 

 藤井聡太九段が竜王タイトル戦で勝利したときのAIによる悪手率分析が全4局のうち第2局〜第4局で驚異の0.0%だったらしい。無数に存在する「次の一手」の可能性の中から、常に最善手を見つけ出して打っているのだ。

 

 「まるで神様に電話して聞いたとしか思えない」。こう語ったのは大指揮者のレナード・バーンスタインである。これは藤井君の将棋ではなく、ベートーヴェンの音楽について言っている。

 

 バーンスタインいわく、

 「メロディ、ハーモニー、オーケーストレーション、ベートーヴェンはそのどれに並外れているわけではない」

 「(第7交響曲の第2楽章をピアノで弾きながら)メロディは『ミーミミミーミーミーミミミー』。ハーモニーは『Am-E-E7-Am』。子供でも書ける」

 

 では何がすごいのかと言うと、

 

 「次の音が必ず正しい音(right next note)に行く。すべてが不確定な中で、常に正しい音がきている。こんな作曲家は他にいない。モーツァルトにもできないことだ」

 

 そしてその「正しい音」ゆえに形式(form)が完璧となり、ベートーヴェンの音楽においては形式こそが全てである、と言う。

 

 「まるで次の音をどうすべきか、天国の神様に聞いたとしか思えない。彼が自らを追いつめ、苦闘した成果なのだろう」

 

 将棋の話で言えばベートーヴェンの悪手率も0.0%であり、最初の音から最後の音まで常に最善手が選ばれていることになる。なるほど興味ぶかい。そういえばこの人の音楽は一聴すると特になんということはないのだが、あとからじわじわすごさが分かってきた体験が何度もある。

 

 もちろんベートーヴェンの部屋に神様への直通電話などなかったはずなので、ああでもないこうでもないと気が狂いそうなくらいの推敲の積み重ねを繰り返し彼は「正しい音」を探し続けたのである。日常を生きていると悩ましいこともまあそれなりに多々あるけれども、ベートーヴェンの苦闘に比べればまだ全然たいしたことはないな、と思う今日このごろであった。

 

 ※ぼくが見たのはもちろん日本語字幕つきでしたが……

けっきょく南極宮地さん

 

 さる9月16日深夜、わたくしの推しである宮地眞理子さんがMBSラジオの生放送番組『あどりぶラヂオ』でパーソナリティを担当されました。100分間、CMなしで曲を挟みつつ宮地さんが喋りっぱなしという、ファンにとって空前の贅沢コンテンツでした。

 

 あらためて考えてみると、彼女が主たる生業としているリポーターという職業の性質上、宮地さんが自身のパーソナルな部分について語る機会というのは、意外なほど無かったわけです。住人十色やミステリーハンターとしてのロケでも、宮地さんの仕事はあくまで取材対象を立てることであり、「私が私が」を出すことではない。宮地さんもそのあたりを非常にわきまえておられて、著書である『地球のふしぎを歩こう』も、おおむねそのスタンスで執筆されています。

 

 でもファンとしては、宮地さんが今ハマっていることとか、こんなおいしいものを食べたとか、面白い映画を見たとか、時々はそういうエピソードも発信してほしいなという欲求はやっぱりあるわけです。

 

 あの『さんま御殿』にゲストとして出演したときですら、男女の話がテーマであったにもかかわらず(オンエアされた部分を見る限り)明石家さんまが投げてくる針をうまーくかわし、私生活を匂わせるようなトークはほぼ回避していました。もっとも、宮地さんのような人が男女問わずモテないわけはないので、彼女が生々しい恋愛話を一切しないのは我々ファンの心情に配慮したサービスであり優しさだとぼくは勝手に思っていますが。

 

 なので、珍しく宮地さんの口から近況や趣味嗜好が聞けた今回のラジオはものすごく満足度が高かった。冒頭、「近況なんですが、私、今年の5月で、なんと……」と溜めが入ったときはドキッとして、もしや「人妻になりました」か!? と、いっしゅん心の準備も決めましたが、違いました。5月から通信制の大学に通い始めたとのこと。いや、もし結婚報告だったらそれはもちろんめでたい話なんですけども。

 

 前半は学校での勉強内容とボイストレーニングと大好きなお酒の話題がひとしきり、番組後半はミステリーハンターの本分として今まで訪れた海外での体験談いろいろ。とくに南極ロケでアルゼンチンの調査隊に同行した際、めちゃくちゃモテた(いわく「空前絶後のモテ期」)話は、笑ってはいけないけど笑ってしまったのですが、『地球のふしぎを歩こう』にも書かれていない面白エピソードなので、ここで詳細を書くのはやめておきます。いつかまた別の機会で宮地さんが語ってくれるでしょう。

 

 番組で読まれたお便りにもありましたが、宮地さんの声はとても落ち着くし、トークも上手だし、深夜に聞いてるとこのまま夜が明けないといいのにと思うくらいいつまでも聞いていられます。定期的にラジオにも出てくれたらうれしいな。

 

 ※これを書いている途中に知ったのですが『あどりぶラヂオ』はなんと今日で最終回らしい。

 

台風とインディ・ジョーンズ

 

 初めて金曜ロードショーで『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』を見たのはものすごい台風の夜だった。Wikipediaで調べてみると地上波初放送が1987(昭和62)年の10月16日で、翌17日未明にその年の台風19号が高知県へ上陸しており、ちょうど金曜ロードショーの放送時間帯あたり、近畿地方は台風の右半円に入りつつあったと思われ、猛烈な風雨で家がミシミシきしむ音といつ停電してもおかしくない恐怖におびえながら、そこから目をそらすように映画に没入していたことを記憶している。

 

 さいわい停電はなかったものの、放送中も断続的に入る気象速報のチャイムとテロップが映画の内容以上に緊迫感をあおり、このときのビデオ録画を何十回と見返したため、以降のテレビ放送では特定の部分で気象速報の音が鳴らないと逆に不自然さを感じるようになってしまった。ぼくの魔宮の伝説はウィリーの悲鳴と気象速報のけたたましい響きである。

 

 よく見るとガバガバでグダグダな作品であり、あの小さな貯水槽のどこにダム決壊レベルの量の水が入っていたんだとか、インディ達よりかなり早く宮殿を脱出した子供たちがなぜ遅れて村に着くんだとか、色々ありますがそんなこんなも映像優先というか持ち前の画力(えぢから)で気にならなくさせるスピルバーグの才能に、今夜の放送終了後も結局「やっぱりおもしろかったな」と感じてしまうのでありましょう。

 

 ゴムボートが飛行機から着地するまでをずっとワンカットで撮ってるのと、吊り橋が落ちるところのシーンは今見てもすごいな〜と思う。あとオープニングのウィリーの歌も好き。

焼き鮭にメモリー

 

 鮭の塩焼きをおかずに白米を食べるのが好きで、中学時代、弁当に焼き鮭が入っていると殊更にうれしかったものである。学校のヤカンで沸かした番茶がまたこれによく合った。鮭と白米をがばっと口の中に含み、すかさず熱い番茶をぐいっと流し込むと、鮭、白米、番茶による至高の三重奏が舌と身体を満たしてゆく。こんな贅沢なひるはんは他にないと思った。

 

 そんなある日、『美味しんぼ』を読んでいると、昭和のエピソードとしてアルミ製の四角く深い容器に白米がぎっちり詰め込まれたいわゆるドカベンにおかずは梅干しが乗っただけ、という質素かつ豪胆な弁当が紹介されていた。これだ! と思い「明日の弁当は弁当箱いっぱいの白米に梅干しと焼き鮭のみでお願いしたい」と母親にオーダー。いぶかられながらも了解を得た。

 

 翌日の昼休み。さあドカベンだ、と弁当箱の蓋を開けてみると、そこはやはり、育ち盛りの息子に鮭と梅干しだけのおかずはいかがなものかという母の配慮がはたらいたのだろう、だし巻き卵や唐揚げや青物野菜がところどころ添えられており、彩りとしては申し分ないのであるが、ぼくの理想とする硬派のドカベンとしては中途半端さが拭いきれないものであった。家に帰り、今度は母親に『美味しんぼ』の該当ページを提示しながら「母ちゃん一日でいいから俺はこの硬派の、本当のドカベンが食べたいんや」と頼み込み、その次の日、弁当箱容積満タンの白米に梅干しと焼き鮭のみ、というハードスタイルの弁当がついに実現されたのである。

 

 これだよこれ、とコップになみなみ注いだ番茶をスタンバイし、いただきまーす、と箸をつけようとしたその時。よほどぼくの弁当が異形のものに見えたのか周囲の女子たちが「○○くん、そのお弁当どうしたの!?」「もしかしてお母さん病気なの!?」とえらく騒ぎ出した。いやこれは私の要望でですね、美味しんぼの富井副部長がですね……などと説明するぼくの話を一切聞き入れることなく、担任まで「お母さん具合よくないのか」と言いだす始末、いやピンピンしてます大丈夫なんですと否定すればするほどどういうわけか逆効果で、すっかりうちの母ちゃんは病気で寝込んでいる設定となり、「私のおかず、分けてあげる」「これも食べて」と次々提供される色とりどりのおかずで裏返した弁当箱の蓋はいっぱいになっていた。かくして硬派なドカベン計画は頓挫し、ぼくは差し入れられた唐揚げやウインナーやブロッコリーを口に運びつつ、番茶をすするほかないのであった。

 

 帰宅し、もちろんピンピンしながらテレビを見てガハハと笑っていた母親に空の弁当箱を返しながら「せっかく硬派なドカベンを作ってもらったのに昨日よりおかずが増えた」という話をしたら「あらアンタけっこう女の子に人気あるやん」とニヤニヤされた。その前からもその後もまったくモテることはなかったし、うちのクラスの女子が優しかったという話なのだが、あのときは疎ましかった弁当箱の蓋に乗ったおかずのカラーを今でも時折思い出す。焼き鮭を食べるたび思い出す。

第九ラストの問題点と歳末感

 

 高校時代、第九のポケットスコアを購入し「フーム、あの音はこんなふうに書かれていたのか」と指揮者気どりで読みふけっていたぼくであるが第四楽章に一箇所、どうしても気になるというか腑に落ちない部分があった。

 

 それは終結部の大詰め、合唱が「歓喜よ、神々の美しき火花よ(Freude, schöner Götterfunken!)」と高らかに歌い上げる916小節からのところ



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 マルで囲ったところがその合唱を導く木管と弦楽器の下降音型であるのだが、

 

なぜベートーヴェンくんはここにスタッカートを付けているのか?? そんなふうに演奏している例を聴いたことがないし、これはいったい何???

 

という疑問なのだった。

 

 どの指揮者もここは思い入れたっぷりに、なだれこむようなレガートで締めくくりにふさわしい大団円感を強調していた。軽やかなスタッカートなど真逆であり、いかにもそぐわない。しかしながら楽譜にはしっかりとスタッカートが書かれている。古今ほとんどの指揮者が、見て見ぬふりをするかのごとく振る舞っているのである。

 

 後年、この謎は解けた。というか、スコアをよく見れば答えが書いてあった。Maestoso(荘重に)の横に記されたメトロノーム指定は四分音符=60。このとおりの速度で歌ってみれば分かるように、このMaestosoでベートーヴェンが意図した本来のテンポは現在ぼくらが聴きなじんだものよりももっと・ずっと・はるかに速く、このスタッカートはそのテンポに合わせて付けられたもので、なだれこむのでなく俊足で一気に駆け下りるようなスピード感が要求されているのである。

 

 つまり現在世界中で行われているほとんどの第九の演奏は、このマエストーソでのベートーヴェンの指定を完全に無視し、倍近く遅いテンポを勝手に採用しているという事実があるのだった。マジか。

 

 にわかに信じがたかったが、いわゆる往年の大指揮者でもアルトゥーロ・トスカニーニやエーリヒ・クライバーが確かにベートーヴェンの速度指示を忠実に守っているし、現役指揮者ではサイモン・ラトルや下野竜也といった面々が指定どおりのテンポで演奏している。だって楽譜どおりに演奏したらそうなるんだから。

 

 しかし、彼らの正しい(はずの)テンポによる演奏を聴いた現代の聴衆の多くはこう感じてしまう、「速すぎる」「なにこれ早送り?」と。ぼくらは、この楽譜どおりのテンポ感を受け入れるには、もはやあまりにも「遅いマエストーソ」に慣れすぎているからだ。

 

 この「遅いマエストーソ」がもたらす大団円感たるやハンパでなく、とくに第九が年末の定番となっている日本では、最後の「フローーーーーイデ、シェーーーーーーーーーーーネーーール、ゲーーーーッテルフーーーンケーーン」に至って師走感・年末感は極限に達し、ああ今年も終わりでんなと一年を回想するクライマックスの瞬間を迎える。毎年第九に通っている人も、招待券で連れてこられて第三楽章まで寝ていた人も、人類兄弟みな等しく一時間以上かかったこの大曲の終わりとともに一年が暮れていくのをしみじみ感じるのだ。

 

 したがって、とりわけ本邦においては、年末感を極大まで増幅するために、このマエストーソはどうしても遅すぎるほど遅いテンポで演奏されなければならないのだった。スコアどおりの速いテンポでは、待ちに待ったピークの瞬間がわけもわからないうち高速で過ぎ去り、年末に味わうべき絶頂がワヤになってしまうのである。みんな忙しい忙しいと言いながらなんやかんやで歳末が大好きなのだ。第九の最後で、刹那の総決算感にどっぷりひたりたいのだ。

 

 それゆえ日本で本来の「速いマエストーソ」が広く受け入れられるには相当長い、百年単位の時間が必要な気がするし、受け入れられることはないような気もする。

 

 ベートーヴェン大先生としては、一世一代のつもりで書き上げた渾身の大作がなぜか極東アジアの島国で年末の風物詩として定着するなどとユメにも思わなかったであろうし、年末感とか知らんがな、お前らわしの書いたテンポどおりやれやと言いたいに違いない。

 

 大先生にはたいへん申し訳ないが、結論といたしましてはぼくも正直、めちゃくちゃ遅いマエストーソのほうが好きである。とくに2020年は世間的にも個人的にも色々なことがあって、どれだけ遅くとも振り返る時間が足りない。大晦日に放送される今年のN響第九のラストはどうだろうか。遅いといいな。思い出すための時間を少しだけぼくにくれ。