モーツァルトの虹色のメロディ。

中学高校時代、まだクラシック音楽を聴き始めのころ、宇野功芳氏が折にふれ「いちばん好きな作曲家はモーツァルト」と書いているのを読んでは、「モーツァルトの何がそんなにいいんだよ」と思っていた。

なるほど小ト短調交響曲などは十代の感受性にもそれなりに訴えかけてきたものの、ベートーヴェンの激情、ブルックナーの宇宙、ワーグナーのスペクタクルに比べてモーツァルトはいかにもスケールが小さく、どの曲もなんだか似たような、明るいけど軽い、軽食みたいな音楽としか感じられず、したがってCDプレイヤーにその作品が乗る機会も少なかったのだった。

時を経て30歳になるころ、はたしてぼくのいちばん好きな作曲家はモーツァルトになっていた。

それより少し前、個人的に悲しいことがあって泣きながら毎日を送っていた時期になんとなく聴いていたモーツァルトの、いっけん明るいその音楽の中にふと聴こえる大きな悲しみと途方もない慈しみが、まさに自分の心境と共鳴して、大げさでなく魂が救済されたような気持ちになったのだ。

上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」。モーツァルトの明るさとは、そういうせいいっぱいの明るさだった。

魔法のような転調をたたみかけながらきらきらと七色のニュアンスをふりまいて去ってゆく音楽。今回は、2分半でその虹色のメロディを堪能できる超有名アリア「恋とはどんなものかしら?」を聴いてみましょう。

なぜ初音ミク版を貼るかというと、旋律そのものの色彩の妙を聴くのに最適だから。ほっとする変ロ長調で始まったメロディは1:00のBメロ(?)で朗らかなヘ長調になり、1:27で少しだけ短調の影が横切るもすぐ1:31でホワンとした変イ長調に転じ、1:47で不意にほの暗いハ短調に変わり、浮遊する感じのまま2:01でト短調に着地、そこから静かに昂ってくる感情とともに変ロ、変ホ、ハ、ヘ、ニ、ト、と一瞬のうちに駆け巡りへ長調に着いて、さいしょの変ロ長調に戻る。そのあと2:42でちょっとト短調になるところなんてすごくポップ。

当然ながら人間の声で歌われるとさらにさらに良い。

ぼくはこのアリアを晴れた日に散歩しながらよく歌う(適当イタリア語ではあるが)。歌えば歌うほど、こんな単純なメロディに千変万化の心の移ろいを込めたモッちゃんへの愛はふくらんでゆく。

ちなみに多くの人が書いていますがこのアリアが歌われる『フィガロの結婚』というオペラのラスト3分はやばい。落涙必至の、人生の終わりにかけてもらいたい音楽。

さいごは考古学者として砕け散った男

※ネタバレ全開です。未見の方はご注意ください。

※ネタバレ全開です。未見の方はご注意ください。

大事なことなので2回言いました。

なんとはなしにインディ・ジョーンズシリーズ第1作である『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』を見返したりしているんですが、そのクライマックスシーンにおいて子供のころは気づかなかったことに最近気づきました。

このお話はご存じのとおり、モーセの十戒石板が納められているとされる「アーク《聖櫃》」をめぐって主人公の考古学者インディとナチスドイツが熾烈な争奪戦を繰り広げる大冒険活劇で、インディのライヴァル的存在としてベロックという考古学者が登場します。

ベロックはインディが命がけで見つけた宝を横取りばかりしている嫌な奴で、ナチスのアーク捜索をも主導し、彼らに先がけてインディが地下遺跡で発見しようやくのことで運び出したアークも、あっさりとベロックの手に落ちてしまいます。

その後、インディはアークの奪還に成功するものの、再びナチス部隊による襲撃を受け、インディはヒロインであるマリオンとともに捕われの身となり、アークはベロックの主宰によるユダヤの儀式において、ついにその蓋が開かれます。

最初は砂が入っているのみと思われたアークでしたが、ほどなくして中からは無数の精霊が飛び出してきたのです。精霊たちは自分たちの封印を解いた者の意図を探るように辺りを飛び回ったあと、怒りの形相へと変貌します。

同時にアークからはもうひとつ、火の玉のようなものが立ち上り、そこから発せられた光線はナチス兵を一人残らず貫通し、祭壇の上、アークの間近にいたベロックと、ナチス高官ディートリッヒ、ゲシュタポ工作員トートの3人はその炎に焼かれ、無残な最期を遂げます。

ちな博識のインディは「一部始終を見なければ大丈夫」ということを知っており、一緒に目を閉じていたマリオンとともに難を逃れたのでした。

アークが開かれるこのクライマックスの場面はもちろんCGなど使われておらず、すべて光学合成による特殊撮影ですが、いま見ても非常に見応えのあるスペクタクルになっています。悪の御三家であるベロック、ディートリッヒ、トートは特に手の込んだ、印象的な死に様を見せつけてくれます。で、ぼくが今回見なおして思ったのは、終始、ベロックがすごい嬉しそうなんですよ。

美しい女性の顔をした精霊が怒りの表情へと豹変(この顔は本当に怖い)すると、ディートリッヒもトートも恐怖のあまり硬直して悲鳴を上げるだけなのに、ベロックは恍惚としたままだし、アークから出てきた炎に包まれた後も、砕け散る瞬間までずーっと嬉しそうなんです。

なんなんでしょうかこの人。Mにもほどがあります。

そして気づきました、敵役ながらベロックもまたインディと同等か、あるいはそれ以上に純粋な考古学者だったのだと。

探し求めていた伝説のアーク、彼はその禁断の蓋を開けたことにより、神の怒りにふれ、神の炎に焼かれて死ぬ。ある意味、これ以上に考古学に殉じた最期があるでしょうか。

あたり一面を飛び回る精霊たちを見たベロックは、彼以外の全員が恐怖と不安の入り混じった表情を見せる中、ただ一言 "beautiful!!" と叫びます。テレビ版の日本語吹き替えだと「素晴らしい!!」になっていたので、ぼくはそのときはベロックの考古学にかける情熱に気づきませんでした。美しかったのです。彼は「ベルリンに持っていって総統の前で開けたとき中が空っぽだったでは済まない」と理由をつけてこの儀式を強行しました。でも本当は総統なんてどうでもよかったんでしょう。

ただ純粋に考古学の徒として、アークの中が見たかったんです。そして中を見た結果、おそらくこうなるであろうことも彼は分かっていたような気がします。

インディが目を開けたときにはすべてが終わっており、ただアークがそこに鎮座しているのみでした。インディはアークの中身を見ていません。ベロックは、命を代償にその全貌を目撃しました。果たして考古学者としてどちらが本懐を遂げたのか、その判断はここではやめておきます。

宮本浩次は『恋人よ』を歌わない

突然だが、いちばん好きな歌手の、いちばん好きな一曲を挙げよ、と問われれば迷う人も多かろう。

エレファントカシマシにおいて、俺はその答えに窮しない。2位以下ベスト10曲を選ぶとすればその選定作業には大いに迷うことだろう。しかし最高位に座する一曲は決まっている。それは9thアルバム「明日に向かって走れ~月夜の歌」所収の「恋人よ」という曲である(ここまで宮本の文体を模倣して書いてみた)。

バンド最大のヒット「今宵の月のように」前に配置された、アルバムのラス2であるこの曲は、長尺である。長尺といっても邦楽のナンバーとしては少々長いという程度、5分半のランニングタイムに過ぎないが、聴き終わってのち、まるで交響曲を聴きとおしたかのような余韻を残す。

クレジットは作詞・作曲・編曲すべてが宮本浩次。ギター、ベース、ドラムに薄いシンセがかぶるのみのシンプルな編成に、晴れわたった秋の空のような、彼方に沈みゆく夕陽のような宮本の歌が乗る(とくに4分半からの最後のリフレインにおける絶唱は涙なしには聴けぬ)。

ところがこの名曲中の名曲、いかなる理由か、まったく演奏されない。俺が過去行ったライヴで今のところ一度も取り上げられていないのみならず、演奏されたという話もいまだ寡分にして知らない。

なぜだろう。宮本はこの曲の出来に満足していないのだろうか。あるいは何か、よほど思い出したくない類の記憶と関連しているがために封印しているのか。そんな憶測をめぐらせてしまうくらい、ほんとにセットリストに入らない。

耳をすませてみよう。荒削りなイントロに色気のないアレンジ。しかしなんと美しい曲なのだ。この「恋人よ」を書いたとき、宮本はまさに青年期から壮年期への途上にあった。曲が、何よりもその歌が、行かないでくれと叫んでいる。終わりゆく青春への愛惜をこれ以上はないくらい叫びながらも、前を向こう、歩き出そうという強靭な意志がある。まるでベートーヴェン「第九」第3楽章のラストみたいだ。

この6年後、「俺の道」というアルバムで宮本は歌った、"俺の青春は終わったけれど、明日もあさっても俺はやっていくから"。いま自分はそのときの宮本と同じ37歳となり、もはや想像でなく実感としてその思いが分かる。して、宮本が「恋人よ」を歌わない理由も、ようやっと分かる気がする。

この曲は宮本が自身の青春に手向けた、いわば餞の歌だったのだ。この渾身の歌唱をもって青春にさよならを告げたのだ(「さらば青春」はどうした、というツッコミ待ちになってしまうが、本音のところはこっちにあると俺は思う)。

だから宮本にはもう「恋人よ」を歌う必然性がない。あるいはこの不世出のロック歌手が壮年期を過ぎ老年期にさしかかったころ、ふと顧みてまた「恋人よ」を歌いたくなる時が来るかもしれぬ。もしも願いが叶うならその瞬間に立ち会いたいと俺はただ望むばかりだ。