宮本浩次は『恋人よ』を歌わない

突然だが、いちばん好きな歌手の、いちばん好きな一曲を挙げよ、と問われれば迷う人も多かろう。

エレファントカシマシにおいて、俺はその答えに窮しない。2位以下ベスト10曲を選ぶとすればその選定作業には大いに迷うことだろう。しかし最高位に座する一曲は決まっている。それは9thアルバム「明日に向かって走れ~月夜の歌」所収の「恋人よ」という曲である(ここまで宮本の文体を模倣して書いてみた)。

バンド最大のヒット「今宵の月のように」前に配置された、アルバムのラス2であるこの曲は、長尺である。長尺といっても邦楽のナンバーとしては少々長いという程度、5分半のランニングタイムに過ぎないが、聴き終わってのち、まるで交響曲を聴きとおしたかのような余韻を残す。

クレジットは作詞・作曲・編曲すべてが宮本浩次。ギター、ベース、ドラムに薄いシンセがかぶるのみのシンプルな編成に、晴れわたった秋の空のような、彼方に沈みゆく夕陽のような宮本の歌が乗る(とくに4分半からの最後のリフレインにおける絶唱は涙なしには聴けぬ)。

ところがこの名曲中の名曲、いかなる理由か、まったく演奏されない。俺が過去行ったライヴで今のところ一度も取り上げられていないのみならず、演奏されたという話もいまだ寡分にして知らない。

なぜだろう。宮本はこの曲の出来に満足していないのだろうか。あるいは何か、よほど思い出したくない類の記憶と関連しているがために封印しているのか。そんな憶測をめぐらせてしまうくらい、ほんとにセットリストに入らない。

耳をすませてみよう。荒削りなイントロに色気のないアレンジ。しかしなんと美しい曲なのだ。この「恋人よ」を書いたとき、宮本はまさに青年期から壮年期への途上にあった。曲が、何よりもその歌が、行かないでくれと叫んでいる。終わりゆく青春への愛惜をこれ以上はないくらい叫びながらも、前を向こう、歩き出そうという強靭な意志がある。まるでベートーヴェン「第九」第3楽章のラストみたいだ。

この6年後、「俺の道」というアルバムで宮本は歌った、"俺の青春は終わったけれど、明日もあさっても俺はやっていくから"。いま自分はそのときの宮本と同じ37歳となり、もはや想像でなく実感としてその思いが分かる。して、宮本が「恋人よ」を歌わない理由も、ようやっと分かる気がする。

この曲は宮本が自身の青春に手向けた、いわば餞の歌だったのだ。この渾身の歌唱をもって青春にさよならを告げたのだ(「さらば青春」はどうした、というツッコミ待ちになってしまうが、本音のところはこっちにあると俺は思う)。

だから宮本にはもう「恋人よ」を歌う必然性がない。あるいはこの不世出のロック歌手が壮年期を過ぎ老年期にさしかかったころ、ふと顧みてまた「恋人よ」を歌いたくなる時が来るかもしれぬ。もしも願いが叶うならその瞬間に立ち会いたいと俺はただ望むばかりだ。