名曲名盤主義と、ぼくがぼくであるために

 クラシック音楽愛好家は、楽曲と同等か、あるいはそれ以上に 「演奏家」 というものを重視する。

 それがクラシック音楽鑑賞の最大の醍醐味であるのは間違いない。そうでなければ極論、ひとつの曲に対してひとつの演奏があればこと足りるということになって、CDショップのクラシックフロアにあれだけの音盤が並ぶ理由もなくなってしまうから。

 でもぼくには、この名曲名盤主義が、クラシック音楽をこれから聴いてみようという人にとっての羅針盤になるどころか、かえって壁になってしまっているような気がする。

 たしかに、ある演奏がその楽曲の魅力を大幅に引き出して提示するというケースはある。ぼくはベートーヴェン交響曲では四番がいちばん好きで、それはムラヴィンスキーのCDを聴いたことが大きい。この演奏がなかったら今でも、なんとなくどんくさい曲、くらいに思っていたかもしれない。

 それが 「この演奏を聴かねば話にならぬ」 「この曲の真価はこの演奏でなければ分からない」 くらいまでエスカレートした論調になると、まずい。それはあまりにも作品自体の力というものを軽く見すぎているし、入門者が初手から名曲名盤主義に偏重しすぎることは、そういう危うさをはらんでいるんじゃないかと思う。

 たいてい、ある程度まで深入りすると、自然と興味関心は演奏家に向けられていく。その段階までは選り好みせずいろんな指揮者でいろんな曲を手当たりしだいに聴きまくって、そうこうするうちになんとなく自分好みの演奏家も出てくるだろうから、そこで初めて参考程度に名盤ガイドに目をとおしてみる。ぼくはそういう聴き方をすすめたい。

 なぜなら、ぼく自身がそういうのとは真逆なアプローチでこじらせていたからで、今までも幾人かの知人に 「クラシック聴いてみたいんだけど何かおすすめ教えてよ」 と言われたときも、自分がやってきたその方法論、曲そのものよりも、この演奏のここがすごいんだ、なんて講釈を打つような薦め方をしてきたもんだから、誰ひとりクラシック音楽の世界に引き入れることは叶わなかった。若かった。黒歴史だ。

 ディスるのは趣味ではないのですが・・・第九の神盤として (さすがに昔ほどではないにせよ) 今も崇め奉られるバイロイトの第九。もうちっとも良いと思わない。あんな録音をファーストチョイスに推しては、好きになる人も好きでなくなってしまう。終楽章の合唱なんてひゃーひゃー言うだけでとても鑑賞に耐えうる代物じゃないもの。

 第九とか、ワーグナーとか、マーラー (はよく知りませんが) とか、大編成の器楽と声楽が聴きものな作品は、何かの間違いでマクシミアンノ・コブラ指揮のCDをつかみでもしない限り、ともかく最初はまず新しい録音で聴くべきで、ヒストリカルを掘るのはその楽曲にじゅうぶん親しんだそのあとでいい。昔こんなすごい演奏があったんだというように。

 だからクラシック音楽に入門したい人のためには名曲名盤本なんぞよりも 「最初に買ってはいけない迷演珍演ガイド」 のほうがよほどためになるし、需要もあるような気がする。

 ぼくは自他ともにウザがられるカルロス・クライバー信者であるけれども、いつまでもベートーヴェンの運命の推薦盤にクライバーでもないだろう、という思いはある。

 そもそもYoutubeにこれだけの音源 (それがリーガルかイリーガルかは別の話として) が溢れかえっている現在、この曲の名盤はこれだこれを買えというような時代では、残念ながらもうない。

 だいたい、いまどきオビの 「レコード芸術特選盤」 の印につられてCDを買う層なんてどれくらいいるのか。 「大丈夫、ファミ通の攻略本だよ。」 と同じくらいのブランドイメージしかないぞたぶん。

 クラシックファンなら誰しも経験があるように、評論家が異常に絶賛しているCDを買って実際に聴いてみたらなんだ大したことないじゃん、ということはままある。そのとき 「いや、あの人がこれだけ褒めているんだ。きっと自分が聴きとれないだけですごい演奏なんだ」 などと卑下する必要はまったくなく、自分がしょうもないと感じたらそんな演奏は容赦なく黙殺してさっさと売りとばせばいいだけの話だ。

 その逆もしかり、自分が本当に好きな演奏は心の中の宝物になる。それを評論家や他人がどう言ったって、うるせえと一蹴すればいい。

 評論家の許光俊さんは佐村河内氏のアレを絶賛していたことですっかりお笑い草にされてしまった。だから 「私は善意で紹介した、それで騙されたなら仕方ない」 などと書かず、 「俺は実際いいと思ったんだ、文句あるかこの野郎」 とはっきり言えばよかった。代作であろうと手垢にまみれた手法の作品であろうと、自分が感動したならその気持ちを大事にすればいいんだ (ちなみに氏が佐村河内について書いたコラムは今でも消されずにHMVオンライン上で読める。それはそれで潔い姿勢だと思う) 。

 クラシックの名曲名盤主義とはようするに多数決の論理、AKB総選挙とか、ジャンプで連載が軌道に乗った作品が巻頭カラーでやるキャラクター人気投票みたいなもので、ネタとして楽しむのが健全であり、真に受けるものではない。1位のキャラに 「みんな応援ありがとう!」 と言われたって、だからなんやねんという話。

 いずれにせよ作品や演奏は時代の淘汰にさらされて残るべきものは残り、消えゆくものは消える。その時代による淘汰も、多分に多数決や資本主義の論理がはたらいているものだろう。しかしそれは種としての人間の存続と、ぼくという個体の人生との関連と同じく、個々人はただ自分がいいと思うものを愛好する。幸せになる道はそれしかない。

 ぼく自身、今では同曲異演への関心は明らかに薄れている。すでに持っている曲のCDを (演奏家が違うとはいえ) 重複して買うよりは、まだ知らない、聴いたことのないモーツァルトの曲を買いたい。モッちゃんの全作品を聴きとおすだけでも、おそらく人生の残り時間はかつかつなんだ (不治の病に冒されているわけではありません) 。あとはどんなに長生きしてもバッハ、ベートーヴェンブルックナーでもう十分タイムアウトだろう。聴き比べをやっている時間はもうない。急がなきゃ。