一足飛びに時代を前進させた、英雄という名の英雄

 あるバンドがメジャーデビューしたとする。ファーストアルバムはオーソドックスなロックのスタイルを踏襲しつつところどころ実験的な試みも盛り込み、荒削りながらもみずみずしい初期衝動をかき鳴らして見せた。

 続くセカンドアルバムもファーストの音世界を技量・楽曲の両面においてさらに研ぎ澄ませ、ただならぬバンドの力量と成長を予感させるに十分な傑作となった。

 そして満を持してのサードアルバム。ファンはファーストとセカンドの延長線上にある作品を期待するだろう。ところがそこで示された音は今までとはあまりにも違う、前2作とは桁違いのスケールをもった、しかし間違いなくこのバンドにしか成し得ない作品としか言いようがないものだった。評論家は絶賛した、ロックミュージックの歴史はこのアルバム以前と以後ではっきり分かたれるだろう――と。

 以上は架空のロックバンドの物語で、ここからはベートーヴェンのお話。彼は3番目となる交響曲で自らのキャリアを大きく飛躍させるどころか、西洋音楽史上の大転換点となる作品を書いた。

 交響曲第三番変ホ長調作品55「英雄」。「エロイカ」って言う人は自称通。

 「もしベートーヴェン交響曲の作曲を二番までで終えていたら、音楽の歴史はまったく違ったものになっていただろう」とよく言われる。もっとも、たとえ三番でなかったとしてもいつかベートーヴェンはこの曲を作った。ただ二番から見てあまりにも大化けしているがゆえにである。それは確かに頷ける。

 何がそんなに革新的か。とりあえず長い。交響曲は30分くらいが平均だった時代に、この曲はおよそ50分もかかったもんだから聴衆は面食らった。テンポの遅い指揮者が第一楽章の反復指示を実行すると、トータルでゆうに1時間を超える。しかし次から次へと聴きどころが押し寄せるのでまったく退屈しているヒマがない。

 いや改めて聴けば聴くほど、本当に「英雄」はすごい。何十回聴いても新たな発見があり、興奮があり、感動がある。

 第一楽章はこの交響曲の核をなす、有名なアレグロ・コン・ブリオ。さてみなさん。英雄というタイトルから壮麗雄大なオープニングを想像されることかと思われるが皆さんの頭の中で鳴っているそれはピアノ協奏曲第五番「皇帝」だ。「英雄」の出だしは拍子抜けするくらいあっさりで、変ホ長調の和音がバン! バン! と2回続けて鳴ったかと思うと、なんだか間の抜けたような調子の第一主題がいきなり始まる、ダサさスレスレの開始。この第一主題のメロディはありとあらゆる形に分解と結合、生成発展を繰りかえし、楽章全体に生き物のような有機性をまきちらす。

 連続して叩きつけられる謎の不協和音。なぜか突然センチメンタルになる木管楽器。笑っていたかと思えば怒り、次の瞬間には穏やかさがにじむ。最初ノホホンと聞こえた第一主題はいつのまにか大きなうねりとなって天空を駆ける。多彩で賑やかな変化に富んだ音楽。

 そして意外なことに? この第一楽章は、三拍子である。

 ぼくが「英雄」というテーマで曲を書くとして(書けませんが)、まず三拍子は採用しない。やはり舞曲のリズムであるし、ずんずん進撃していくというよりは緩やかに浮遊しているようなイメージ(ブラームスの二番のような)があるから。ところがそこは楽聖ベートーヴェン、この曲は三拍子で驚くほどの推力を生み出している。

 第二楽章は大規模な葬送行進曲。この楽章は聴きはじめの人にはちょっとつらい。ぼくも長らく苦手だった。聴きどころが分からなかったのだ。だいぶ後になって、分かった。第九でもそうであるように、ベートーヴェンの長大アダージョは、ラスト3分に最大の聴きどころがやってくる。

 スコアで言うと209小節以降、上のフルトヴェングラーの動画で29:14から先が、この葬送行進曲のおそるべき核心部分である。

 はっきり申し上げると、ここより前はまだ人間世界(葬送が行われている)であり、ここから先は冥界の音楽(死んだ英雄の目線)になる。いきなり音楽が青白くなるのだ。体温がなくなってしまったかのように、オーケストラはひんやりした響きに覆われる。そして最後の最後、寒気がするような木管のピアニシモ(32:00と32:12)。どう聴いても三途の川の向こう側です。本当にありがとうございました。

 ここまで聴いて、ある疑問が頭に浮かぶ。第二楽章ですでに英雄が死んでいるのなら、後半ふたつの楽章はなんなのだ。その答えは単純にして明快、第三楽章と第四楽章は在りし日の英雄のOMOIDE IN MY HEADを描いた音楽である。

 第三楽章はこの交響曲の中でいちばん気楽に楽しめる。まだ自分が死んだことに気づいてない英雄が夢見る野戦の勝利といった趣か。A-B-Aのシンプルな三部構成で、中間部分のBでは名高いホルン三重奏が鳴り響く。

 第四楽章でいよいよ自分が死んでいたことに気づいた英雄は過去を回想する。幼少期から少年期、青年期から壮年期を経て、はたして老年にまで至っていたのか否か、それは分からないが、波乱にみちた生涯をなぞるようにめまぐるしく音楽は流転し、そして約7分が経過したところで、突然静まりかえり、猛烈に感傷的なセピア色の風景が流れはじめる(46:20)。

 甘美な思い出。戻りたいけど戻れない過去。ずっとイケイケ超人で突き進んできた英雄がここへきて、ついに人間らしい弱みを吐露するのだ。この部分はいつ聴いても、うるっとしてしまう。

 しかし英雄という強者に、やさしさに包まれながら眠ることは許されない。多くの人を救いはしたが、同時に多くの人を殺めてきた。最後には魂の孤独という悪魔の国が口を開けて待っている(安吾)。悲痛なトランペットのフォルティシモが、その最期を生々しく描写する(50:24)。ここの金管はホールを切り裂くくらい思いっきり鳴らしてほしい。

 そして長大な交響曲は、やけくそのようなどんちゃん騒ぎで幕を閉じる。英雄が死んだって世界は何も変わることなく、人々は今日も起きて働いて食事して酒飲んで踊ってセックスして寝るのだ。

 終結部分は指揮者泣かせの難所として名高い。最後のパン、パン、パーンという三つの和音、スコアで見ると八分音符、八分音符、四部音符。これを楽譜通りに演奏すると、パン、パン、パァン…と最後の音が非常にヘボい感じになってしまい、客席が盛大にずっこけるので、多くの指揮者は最後の四分音符を長めに鳴らすか、開き直って八分音符にしたりする。あるいはフルトヴェングラーがやっているようにテンポを落として音価を長く感じさせる奥義もあり、腕の見せどころだ。なぜベートーヴェンはこんな中途半端な音の配置にしたのかって? そうだねえ…「満たされなさ」を表したかったのかなあ、なんて思う。ラストの一音まで聴き逃せない、本当に大傑作ですぜ。