志村けんのこと

 

 志村けんが死んで一週間、「思った以上にショックだ」という反応をたくさん目にした。ぼくも同じ気持ちだ。最近の動向を熱心に追っていたわけでもないのに、志村けんがいなくなってしまった喪失感が意外なほど大きい。

 

 ぼく(1977年生まれ)の世代は、物心ついたときには『全員集合』の人気が絶頂だった。毎週、テレビの前に座って志村だ加藤だと大はしゃぎしていた。ヒゲダンスのバケツを回すやつは掃除の時間にみんなマネした。高学年になるとクラスには『ひょうきん族』組も現れたが、わが家は『全員集合』が終了してからも、そのまま後番組の『加トケン』を見ていた。「だいじょうぶだあ太鼓」はダンボールを使って自作した。

 

 ビデオテープがすりきれるほど見た『ドリフ大爆笑』のコントの数々。いかりや長介の存在の重要さに気づかされるのはもっと大人になってからで、子供のぼくにとってのドリフターズとは、なんといっても志村と加藤、とりわけ志村けんとほぼイコールだったように思う。

 

 加藤茶が「いっきし!」とくしゃみをすると志村けんがずっこける、そういう反射神経をずっと見て育ってきたものだから、今でも誰かがくしゃみをするとそれに合わせて「ズコ」とか「ガク」みたいなリアクションをとってしまうし、不意に誰かから声をかけられた際などは、振り向いたらいかりやが立っていたときの志村ばりに驚く。こういった日常の何気ない素養はすべてドリフ、ひいては志村けんの影響によるものであり、それによってどれだけぼくらの心が豊かになったか、考えてみると計りしれない。日本全国の子供がこの「基礎教養」を志村けんからテレビ越しに教わり、身体で覚えたのだ。多くの同世代が志村けんの死に抱く大きな喪失感は、そうやって今までずっと当たり前に自分の一部を構成していたものが消えてしまったような感覚ではないだろうか。

 

 おそらく不本意だったに違いないが、結果として志村けん死去のニュースは新型コロナウイルスの猛威の象徴として報じられることになってしまった。いかりやの次がまさかいちばん若い志村だとは、神様の気まぐれ、運命だったと受け入れるしかないのかもしれない。志村けんがもうこの世界にいなくなってしまったことはとてもさみしいが、喜劇王の死に涙はふさわしくないので、ぼくはこれからも死ぬほどバカバカしいコントを見て、笑って志村を偲び続けたいと思う。ブーさんの言っていたとおり、その笑いがあるかぎり志村は死なない。