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楽は三十三間堂に満ちて

クラシック音楽

 フジ三太郎には月見ソバがよく似合うと言うが、

 ブルックナーには仏像が似合う。

 先日、京都に来た知人といっしょに、三十三間堂へ行きました。

 三十三間堂なんて、ぼくも小学校の修学旅行以来だったんですけど、いや最高ですよここ。 観光名所としては清水寺金閣や二条城に比べて地味であるものの、京都駅から近くアクセスもいいし、自家用車で行ってもなんと40分以内なら駐車無料 (他の神社仏閣では考えられない!)。 拝観は靴を脱いで上がりますが、下駄箱が設置されていて、よくある靴袋に入れて出口まで持ち歩くスタイルではない。 あれ個人的に苦手なので。

 それよりなにより、堂内に配置された1001体の千手観音像は、本当に圧巻で、息をのむ光景です。 はっきり言って 「これ考えた人、頭大丈夫か」 レベル。

 「とりあえず仏像いっぱい作って並べたらなんかみんな幸せになる気がする」

 というヤケクソじみた、しかしどうしようもない、人の悲願を感じます。

 この1001体の観音像は一体一体すべてが違ったお顔で、公式サイトによると

 >観音像には、必ず会いたい人に似た像があると伝えられています

 という妙にロマンティックな一文があったりします・・・そ、そうかな・・・

 で、ロマンティックつながりではありませんが、ぼくがこの1001体の仏様を見ながら考えていたのはブルックナーのことでした。 というより、いつの間にか頭の中で勝手にブルックナーが鳴り出していました。 第8番のアダージョが。

 あっ!

 ブルックナー仏教美術、親和性が高い!!

 天啓のようにそう感じ、帰ってすかさず 「ブルックナー スペース 仏教」 でググってみても、チェリビダッケ禅宗仏教徒だったという例の話が出てくるばかり、仏像を眺めていたらブルックナーが聴こえてきた、というような証言はあまり得られません。

 チェリビダッケといえば、EMIから出ていたブルックナーのCDジャケットは南禅寺の石庭でした。 でも石庭からブルックナーは、ぼくにはあまり聴こえない。 やはりどうも、仏様のあのお姿なのです。

 またあるとき、片山杜秀さんの評論を読んでいたら、モーツァルト40番第二楽章のある部分で 「蓮華が開いていくような感じ」 を体験した、ということが書いてありました。 でもモーツァルトやバッハから仏教的感覚を聴取したことは (いかにもありそうな話ですが) ぼくはまだない。やはりどうも、ブルックナーなのです。

 8番のアダージョでいうなら練習番号G (109小節) からの、ホ長調ト長調変ロ長調へと転調しながら静かに高揚してゆくあの感動的な部分、まさに蓮の花が開いていくような、仏様の半眼のまなざしが自身と宇宙を見通していくような、そんな超感覚につつまれます。

 このブルックナー仏教美術の親和性に気づいてから、ぼくはブルックナー鑑賞も、仏教についての興味関心も、どちらも今まで以上に面白くなりました。

 ぼくが習っているピアノの先生は、三味線も教え子を持つほどの腕前で、「ピアノを弾いているからといって西洋ばかりに偏ってはいけない、和洋どちらも吸収することで見えてくるものがある」 とおっしゃっていました。 なるほどこういうこともあるのかと、しみじみ感じています。

 そういえば、東京の築地本願寺にはパイプオルガンが設置されているそうで、行ったことはありませんが、ぜひ見て聴いてみたいものです。

 そして日本のオーケストラ各位には、わざわざ遠く聖フローリアンまで行かずとも、日本のお寺のお堂でブルックナーを演奏してみていただきたい。 仏教伽藍に鳴り響くブルックナー、きっとものすごい風景が顕れるに違いないと確信します。

 そう思って曼荼羅を見つめながら耳を傾けていると、たとえば第9番のブルックナー開始における低音のユニゾンも、本堂に響き渡る僧侶たちの読経に聴こえてきませんか?

 「こねーよ」 というたくさんの声が聴こえてきそうですが、ここまで読んでいただきありがとうございました。