読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

猛暑日と田園交響曲 ~ 過剰な人工の楽園都市NO.6

クラシック音楽

 毎日暑いですね。

 せめて音楽だけでも避暑したいと思い、棚から取り出してかけたCDがベートーヴェンの 「田園」 だったりすると、もうだめだ。

 あ、暑い。 そして過剰だ。 この交響曲は。

 これまでに幾度もトライはしているのだが、ベートーヴェン交響曲の中では、いまだにどうもこの作品が苦手で、 「田舎に着いたときの晴れ晴れとした気分」 にちっともならない。

 標題とは裏腹の、ぎっちぎちの構成、徹底的な動機展開と執拗な反復、筋肉質で骨太なサウンド。 息がつまる。 やっぱり 「田園」 は 「運命」 とコインの裏表、作品68と67だけあって、出力というか変換の仕方が違うだけで元は同じの、双子の交響曲なのだ…。 どちらも異常に密度の濃い、過剰な音楽。 「運命」 では作品の方向性にうまく合致していたその過剰さが、 「田園」 ではテーマとの間に齟齬をきたしているように思う。

 これでは晴れ晴れとした気分どころか、休日に混雑した行楽地へわざわざ疲れに行くようなものだ。

 第一楽章の最初からもう過剰で、ザザザザザという弦楽器群の響きも木々のざわめきというより、人いきれの熱気のように暑苦しい。 何回繰り返すねんと言いたくなるタッタララッタの動機。 真夏に聴いてると提示部だけでバテそうだ。 さすがにほとんどの指揮者はここの反復をカットするけれども、たまにやる人がいて、熱中症が心配される。 パーヴォ・ヤルヴィもリピートしていた。 や、やめてほしい。

 「田園」 で指揮者に要求される (というか、ぼくが勝手に望む) のはこの緊密で暑苦しいスコアを聴衆にはそれと感じさせず、いかに軽やかに爽やかに、クールに鳴らすか、ということに尽きる。

 一方で、この過剰かつ筋肉質な音楽は、聴き手であるぼくにベートーヴェンの見た情景とは違う、ものすごく人工の自然、人間の手が入ったリゾートランドな風景を映し出す。 あるいは郊外にある巨大でピッカピカなイオンモールのエントランスを。

 人為的な自然公園、家族で一日遊べるショッピングモール、おおいに結構。 多くの人が愛でる自然とはけっきょく人間による整備の行き届いた自然のことだし、お盆休みともなればイオンは家族連れでごった返す。

 2015年にぼくたちが 「田園」 をとおして見る風景は、ベートーヴェンが見て、感じたものと同じではあり得ない。 そもそもベートーヴェンがこの交響曲について 「絵画的な描写ではなく、感情の表出である」 と書き記しているのだから。 現代のぼくたちは現在のフィルターで、いかようにも受け取れるはず。 第四楽章なんて完全にゲリラ豪雨そのものだしな。

 ともあれ、ぼくはこの夏も行ってみたいイベントのひとつやふたつあったものの、そのイベントに行きたい気持ちよりも帰りの大混雑がイヤな気持ちが勝ってしまうので、部屋で 「田園」 を聴いてるくらいがちょうどいいのだろう (か?)。

 最後に、嘉門達夫のこの歌を。

旅行から帰ってきたら

お母さんは必ず言うのさ

「やっぱり家がいちばんね」

ほな始めから旅行行くな

wpid-PK2014081502100171_size0.jpg

 でも水着のおねーちゃんは見たい