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人類がいなくなったヴィヴァルディの 「春」

 中学一年のとき、音楽の授業でヴィヴァルディの四季から 「春」 の第一楽章を聴かされ、その感想を書きなさいと言われた。

 ぼくがクラシック音楽に開眼するのは中学二年まで待たなければならず、そのときはまだ音楽鑑賞を積極的な趣味にすらしていない段階だったので、感想を書きなさいと言われても何をどう書けばいいかさっぱり分からなかった。 ただなんとなく心地よい曲だとは思ったので 「春らしいさわやかな曲だと思いました」 とかなんとか一行だけ書いて提出したような記憶がある。

 さて大人になってみて今、果たしてぼくはこの曲について 「春らしいさわやかな曲だと思いました」 以外に語る言葉を持たないのである。 なんという体たらくか。

 ヴィヴァルディがいたくお気に入りの上司が、年始の職場で一日じゅう 「春」 を延々繰り返し流していたことがあって、そのとき何十回、何百回と聴きながら考えてみてもやはり同じだった。

 この曲には、感情を投影する余地がない。 感傷の入り込む隙がない。 モーツァルトベートーヴェンを聴くときとは違う。 ブルックナーを聴くときとも違う。 モーツァルトベートーヴェンの紡ぎ出す激情にぼくたちはすんなり自分の気持ちを投影できるし、ブルックナーには神の御業を仰ぎ見る人間の一人称視点が存在する。 が、ヴィヴァルディのこれには一人称も三人称もなく、視点の置きどころが分からないのだ。 ただ人間不在の風景だけが通り過ぎていく。 その景色の、なんと美しいことか。

 あまりにも有名な第一楽章の、あの華やかな響とは裏腹に、そこには藤子・F・不二雄先生が S F 短編でよく描いていたような、人類がいなくなったあとの荒廃した未来世界の春が垣間見えて、ぼくはちょっと空恐ろしくなったりするのだ。

 あれ、なんだ。 ちゃんと感想書けたじゃん俺 ( たぶん教師の評価はよくないが ) 。