言葉なき歌、または宮崎駿は説明しない

 ☆ アカデミー賞受賞記念 ☆

 宮崎駿といえば活劇の人で、カーチェイスや飛行シーンにおいてその非凡なセンスが発揮されるのは万人の知るところであるがそれ以上に彼は何気ない、そう本当に何気ないカットに詩情をこめるのが上手いと思う。

 『天空の城 ラピュタ』 でぼくがいちばん好きなシーンは、パズーとシータがラピュタを後にして、遠ざかっていくラピュタをただじっと見送るあの場面。 だんだん小さくなり見えなくなるラピュタと、それを見つめる二人のカットが、実に4回もの切り返しを重ねて丁寧に丁寧に描かれる。 この間、音楽が鳴っているだけで、二人は一言も発しない。 しかしこのパズーとシータのまなざしに万感の思いが込められていることは、観客の全員が承知していることだ。

 ここでもし 「さよなら…ラピュタ…」 なんてセリフを言わしてたら、もう一気に興醒めのぶちこわしで三流作品に堕ちるところですよ。 正しく沈黙は金。

 宮崎映画の登場人物は、ここぞという時には黙る。 『となりのトトロ』 のあの日本映画史に残る名カット、サツキが初めてトトロに出会うバス停のシーンでも、セリフのない時間が長く続く (ここでは音楽もない)。 ようやく口を開いたサツキは傘の使い方について二言三言話すだけ。 いやもっと他になんか言うことないんかと。

 ぼくの大好きな 『魔女の宅急便』 のラストでは、キキに魔法の力が戻ったのにジジは 「ニャー」 としか言わない。 ここは解釈の分かれるところで、キキが成長した暗示としてジジとは話せなくなったと見るか、観客にはニャーとしか聞こえないけどキキには以前のように人語が聞こえていると見るか。 ぼくはキキの反応からして前者だと思う。

 宮崎駿は、余計な説明をさせない。 なぜなら粋じゃないから。 ポルコ・ロッソがなぜ豚になってしまったかという謎は本来あのフィルムにおける最大の関心であるはずなのに、そこには一切の言及がない。 なぜ千尋がこの豚たちの中に両親がいないことが分かったのかについても、何も語られない。 粋じゃないから。 ぼくはそういった演出のあれこれに、この監督の 「そんなこといちいち俺に言わせるなよ」 という照れと 「分かるやつだけ分かればいいんだ」 という尊大ともいえる絶大な自信とを、同時に感じる。

 北野武の映画も、もともとはそういう 「無粋な説明」 を省いたクールさが売りのひとつだったのにどういうわけか、本当にどういうわけか 『HANA-BI』 から過剰に説明的なセリフが乱発されるようになり、おかげであの映画はラストシーンだけが見どころの出来の悪いメロドラマになってしまった。 世界というマーケットを見据えて分かりやすい方向へと日和った結果なのかどうかはともかく、 『ソナチネ』 までの無愛想な作風にしびれた者としてはなんとも気恥ずかしいというか、にわかに受け容れがたい転向ではあった。

 『風立ちぬ』 を観る限り、この映画作家は往時の才能にまったく衰えを見せていない。 しかし宮崎駿は、北野武のような変節に至る前に自ら長編から身を引いた。 それはとても賢明な判断であったろう。

【京都ちょっといい店 ②】 すしてつ先斗町店

 京都ちょっといい店シリーズ第2弾は、またしても寿司。

 お寿司好きなんです。

 しかも京都だっつってんのに江戸前とかもうね。

 「すしてつ 先斗町店」 (特に公式サイトはないようです)

 三条大橋のたもとから先斗町へちょっと入ったところにあるこの 「すしてつ」 という店、検索すると大阪のほうにも支店? があって、どこが本店なのか判然としない。

 ここは、回らないお寿司である。 が、恐れることはない。 一貫が100円という比較的良心的な価格だ (ただし一回の注文で二貫が提供される) 。

 板前さんは皆、髪を刈り込んだいかにも職人然とした方ばかりで、カウンター席に座ると差し向かいで注文しなければならないため、コミュ障のぼくなど最初はびびったが、カウンター内には常に複数の板前さんがおり、常にそれぞれの席に気を配ってくれているから、すぐに慣れる。

 お寿司は皿ではなく、ちゃんと笹の葉の上に並べて置かれる。 これが回転寿司に慣れているぼくにはとっても新鮮で、食欲がそそられる。

 少し値の張るおすすめメニューもあり、ぼくが今回、ちょっと覚悟を決めて注文した生ウニは二貫で650円くらいだった。 とことん舌の上で反芻して3分くらい余韻を味わった (650円でこのありさまである) 。

 店内からは鴨川が一望でき、なかなか情緒のあるロケーションになっている。

 お寿司も小ぶりでかわいらしく、女性にすごく喜ばれるんじゃないかと思うイチオシの寿司屋ですよ (個人差があります) 。

人類がいなくなったヴィヴァルディの 「春」

 中学一年のとき、音楽の授業でヴィヴァルディの四季から 「春」 の第一楽章を聴かされ、その感想を書きなさいと言われた。

 ぼくがクラシック音楽に開眼するのは中学二年まで待たなければならず、そのときはまだ音楽鑑賞を積極的な趣味にすらしていない段階だったので、感想を書きなさいと言われても何をどう書けばいいかさっぱり分からなかった。 ただなんとなく心地よい曲だとは思ったので 「春らしいさわやかな曲だと思いました」 とかなんとか一行だけ書いて提出したような記憶がある。

 さて大人になってみて今、果たしてぼくはこの曲について 「春らしいさわやかな曲だと思いました」 以外に語る言葉を持たないのである。 なんという体たらくか。

 ヴィヴァルディがいたくお気に入りの上司が、年始の職場で一日じゅう 「春」 を延々繰り返し流していたことがあって、そのとき何十回、何百回と聴きながら考えてみてもやはり同じだった。

 この曲には、感情を投影する余地がない。 感傷の入り込む隙がない。 モーツァルトベートーヴェンを聴くときとは違う。 ブルックナーを聴くときとも違う。 モーツァルトベートーヴェンの紡ぎ出す激情にぼくたちはすんなり自分の気持ちを投影できるし、ブルックナーには神の御業を仰ぎ見る人間の一人称視点が存在する。 が、ヴィヴァルディのこれには一人称も三人称もなく、視点の置きどころが分からないのだ。 ただ人間不在の風景だけが通り過ぎていく。 その景色の、なんと美しいことか。

 あまりにも有名な第一楽章の、あの華やかな響とは裏腹に、そこには藤子・F・不二雄先生が S F 短編でよく描いていたような、人類がいなくなったあとの荒廃した未来世界の春が垣間見えて、ぼくはちょっと空恐ろしくなったりするのだ。

 あれ、なんだ。 ちゃんと感想書けたじゃん俺 ( たぶん教師の評価はよくないが ) 。

もう半分はグルダのせい

 

 

 カルロス・クライバーと並ぶぼくのヒーロー、フリードリヒ・グルダ。

 

 

 ぼくが三十五歳にもなってピアノを習いに行くなどという酔狂を始めた理由の半分はモーツァルトにあり、あとの半分はグルダにある。

 

 

 でもグルダの音楽にちゃんと出会ったのは、没後ずいぶん経ってからだった。 どうして存命中、この人の音楽にちゃんと接する機会がなかったのかと思う。

 

 

 宇野さんはグルダをあまり高く買っていない様子で、著作では推薦盤に挙げるどころか名前すら出てこない。 ほぼ完全スルー。 まずそれが大きかった。 手元にある1994年刊行の音友ムック 「クラシック現代の巨匠たち」 の中でも、ポリーニや弟子のアルゲリッチが4ページを割かれているのに対し、師であるグルダは1ページだけの扱い (ミケランジェリでも1ページですが)。 またグルダの来歴においてジャズへの傾倒は大きなウエイトを占めているため、当時のぼくにはクラシックとジャズの二足のわらじを履いた、なんとなく二流ぽい人という印象しかなかったのだ。 もったいない。 ああもったいない。

 

 

 ただそのころはモーツァルトもまだよく分からなかったし、さらにはピアニストという人種にもあまり関心がなかった。 もしグルダの弾くモーツァルトを聴く機会に恵まれていても、たちまち惹きこまれていたかどうか、自信はない。 出会うべくして、おっさんになってからぼくはグルダと出会ったのだ。

 

 

 春の日だった。 YouTubeでモーツァルトのピアノ曲の演奏動画を色々と聴きあさっているうち、なんとなくクリックしたその動画では、トルネコみたいな太ったおっさん、それもどう見ても普段着のおっさんがオーケストラを前にしてピアノに向かい、椅子から乗り出したり立ち上がったり、まるで宴会の余興のごとき気楽さで、ピアノ協奏曲第26番 「戴冠式」 を指揮し始めた。

 

 

 

 

 衝撃だった。 なんというフリーダムなおっさんだ。 トルネコがふしぎなおどりをおどっている。 さらに衝撃だったのは、その演奏がどう聴いても素晴らしいんである。 2分半過ぎ、独奏ピアノが始まってからの音のきらめきといったらもう、モーツァルトの虹色の音楽がグルダのピアノによってさらに光を帯びたようで、極上にハッピーな気持ちになってくる。

 

 

 なんたってグルダは、演奏してる姿がかっこいい。 どのピアニストよりもかっこいい。 軽妙洒脱というか、たまらなく粋だ。 おまけに弾きながら鼻歌を歌うので、たいていの音源にはピアノと一緒にその鼻歌も記録されているのはお決まり。

 

 

 グルダはよく演奏中、客席のほうを見て嬉しそうに笑いかける。 それは 「どうだ俺の演奏、いいだろう」 という自己顕示ではなく、 「どうだ音楽って、本当に素晴らしいだろう」 と語りかけているようにぼくには見える。

 

 

 「クラシックとジャズ、ふたつの世界に生きた人」 といつも決まって紹介されるグルダ。 ぼくが思うに、グルダにとってはクラシックとかジャズとか、そういう区分も実はどうだってよかったんじゃないか。 ただ 「音楽」 だったんだよきっと。

 

 

 グルダの演奏哲学はシンプルだ。 快楽主義的で、かっこよく、気持ちいい。 愛車は真っ赤なフェラーリで、女性が大好きで、腕時計は金ピカ。 いっけん軽いノリのオヤジに見えて、心にでっかい愛の海がある。 カッコイイとは、こういうことさ。

 

 

 そんなグルダになりたくて、そんなグルダになれなくて。 ぼくはきょうもピアノを練習する。 グルダみたいに弾くことは逆立ちしても一生かかってもできない。 ただグルダがピアノを弾く姿を見ていると、俺はなぜ音楽を聴くのかという根源的な自問に対するものすごーく大切でものすごーく単純な答えが、いつも必ずはっきり見えるのだ。

 

 

ブリュッヘンを思い出す

 たしか、あの日ぼくは風邪で体調を崩してひいひい言ってた。 熱もあった。 さいわい咳は出てなかったので、行こうと思った。

 早くからチケットを買って、休暇にするつもりでいたのに、よりによってその日に会社が昇進試験の一次日程をねじこんできたもんだから、フラフラクラクラする頭でぼくは、14時からの筆記試験が何時に終わって何時の新幹線に乗れば19時までに東京の赤坂に着けるのか、そればかり気にしていた。

 2007年の2月7日。 さんざんな試験を終えて新幹線に飛び乗り (なぜか途中、巣鴨へ寄って豆大福を食べた記憶がある) なんとか辿り着いたサントリーホールのRC席で、ぼくはフランス・ブリュッヘンが指揮する新日本フィルを聴いた。 曲目はモーツァルトフィガロ序曲、交響曲39番、40番。

 ステージに現れたブリュッヘンは、びっくりするほど、おじいちゃんになっていた。 足どりもよぼよぼで、指揮台までの歩みも危なっかしく感じるほどに。 椅子に座っての指揮。 ブリュッヘンの腕が上がる。 ぼくはドキドキしながら最初の音を待つ―――

 ここで話は1993年にさかのぼる。 その日のNHK教育 (当時) 「芸術劇場」 のプログラムは、噂に名高いフランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ来日公演。 曲目はモーツァルト 「フルートと管弦楽のためのアンダンテ」 、そしてベートーヴェンの 「英雄」 。 すでに宇野さんの本やら何やらでこのコンビの評判を読んでいたぼくは、ドキドキしながら録画ボタンに手をかけて待っていた。

 テレビのスピーカーから流れてきたのは、初めて聴く音だった。 いつも聴いているオーケストラのサウンドとはまったく違う、油絵の具で書きなぐったような、強烈な色彩。 ぼくは圧倒された。

 それでいて、高校1年のガキんちょの耳にもその演奏は、とても洗練されていた。 激しい表現欲求が音と音の間から溢れんばかりであるのに、ちっともうるさくなく、品がある。 一音一音がえらく味わいぶかい。 まるで上質な伊賀焼のたたずまいのような、二晩寝かせたカレーの味わいのような。 440ヘルツより低く設定されたほの暗い音程、ヴィブラートなしで引き延ばされる弦楽器、土くさい金管、小さいマレットで鋭く打ちこまれるティンパニ、なにもかもが新鮮な響きだった。

 きれいじゃないけど、美しい音。

 その中心にあって指揮台も置かずオーケストラと同じ高さに立ち、イカれた科学者のような目つきで一心不乱に音楽を導く指揮者ブリュッヘン。 いやあかっこよかったよ。 この録画は何回見返したかわからない。

 カラヤン亡き後の1990年代において、ブリュッヘンと18世紀オケによる録音は最高にセンセーショナルで、間違いなく全世界のクラシック音楽ファンを活気づけるエナジーを放っていた。

 ふたたび2007年のサントリーに戻る。 鳴り始めた 「フィガロ」 序曲は、モダン楽器なので18世紀オーケストラほどのコクはないものの、まぎれもなくブリュッヘンの音だった。 もはや以前のような狂気と正気の拮抗したテンションの高さはなく、そのかわりに音楽は静けさをたたえていた。 とても静かで、とても美しいモーツァルト。 アンコールには第40番の1楽章がもう一度演奏された。

 ぼくは実のところ40番の交響曲は、33番やリンツプラハに比べると全然聴かない。 でも時折思い出したように聴きたくなる日があって、きのうもふとそんな気持ちになってこの曲をかけていたら、ブリュッヘンの訃報を知った。

 だからぼくはこの曲でブリュッヘンにさよならを言おうと思う。

 もうモーツァルトベートーヴェンと会ったころだろうか。 会いたかった人たちいっぱいいるだろうから、 「これで本物の18世紀オーケストラができるぞ」 とか言って興奮してんじゃないだろうか。 やかましいわ。

 ぼくはこの21世紀でもう少しだけ、あなたが遺したモーツァルトを聴き続けます。

【京都ちょっといい店 ①】 寿司のむさし三条本店

 学生時代を含めて京都に17年も住んでいるというのに、ぼくは京都の名店とか全然知らない。

 京都を訪ねてきた知人と会う。「どこかいいお店連れてってよ」 と言われる。硬直する。熟考した末、

 「お寿司…」

 「なんで京都まで来てお寿司よ」

 「うどん…」

 「なんで京都まで来てうどんよ」

 「とんk」

 「なんで京都まで来てとんかつよ」

 「…ゆ、ゆどうふ…」

 「湯豆腐か、悪くないけど、もうちょっとがっつり行きたいなー、ほかには?」

 「 」

 「わー、これこそ京都! っていうようなお店、ないの?」

 「 」

 「ねえ」

 「 」

 「もういい、湯豆腐食べよう」

 というような局面を何度も経験してきた。京都らしい店とは一体なんなのだ。懐石か。おばんざいか。あるいは鴨川が見渡せるロケーションか。どういうところに連れて行けば喜んでもらえるのか、いつも煩悶する。

 なのでここはいっそ開き直り、京都らしさがあるかどうかは完全においといて、お金のないぼくが通いつめたりつめなかったり、ともかくここは行く価値ありと独断で決めた京都のちょっといいお店のことを時々書いていこうと思う。

 記念すべき第一回は、ぼくが愛してやまない回転寿司店、

 「寿司のむさし 三条本店」

 ここは大好きな店。どれくらい好きかというと、別段お腹が空いてないときでも通りかかったらつい入ってしまって5、6皿食べてしまうくらいには好き。

 もうだいぶ前になるが、この店から歩いて10秒のところにかっぱ寿司が出店してきたことがあって、なんちゅう喧嘩の売り方だと肝を冷やしたものの、あっという間に撤退してしまった。それくらい支持されている。

 まず入店してすぐ分かることには従業員の数が多く、カスタマーサービスが行き届いている。注文したいけど誰もいない、ということが滅多にない。

 小ぶりで上品なお寿司は全皿140円均一。大手に比べると若干、高め。でもネタは新鮮。回っていてもいなくても、頼めば目の前の職人さんがすぐ握ってくれる。ぼくの大好物である赤貝も、たいていいつもある。

 それと、赤だし。ぼくはお寿司を食べに行くと必ず赤だしを注文する。ここのハマグリの赤だしは本当においしい。

 ごくまれに、1階のカウンター席が混んでいると、2階へ案内されることがある。活気にあふれた1階とはまた違って2階はとても落ち着く空間になっている。ぼくはまだ一度しか上がったことはない。

 そして、季節を問わず一年中、どの時間帯に行っても、外国人観光客が多い。おそらく海外の有名なガイドブックに掲載されているのだろう。

 京都駅八条口と北区に支店がある。

 おいしいお寿司に舌鼓を打ちながら、外国人観光客のほほえましい箸遣いを見て 「ああ、京都だな」 と満喫できることうけあいの店 (※個人差があります)。

名曲名盤主義と、ぼくがぼくであるために

 クラシック音楽愛好家は、楽曲と同等か、あるいはそれ以上に 「演奏家」 というものを重視する。

 それがクラシック音楽鑑賞の最大の醍醐味であるのは間違いない。そうでなければ極論、ひとつの曲に対してひとつの演奏があればこと足りるということになって、CDショップのクラシックフロアにあれだけの音盤が並ぶ理由もなくなってしまうから。

 でもぼくには、この名曲名盤主義が、クラシック音楽をこれから聴いてみようという人にとっての羅針盤になるどころか、かえって壁になってしまっているような気がする。

 たしかに、ある演奏がその楽曲の魅力を大幅に引き出して提示するというケースはある。ぼくはベートーヴェン交響曲では四番がいちばん好きで、それはムラヴィンスキーのCDを聴いたことが大きい。この演奏がなかったら今でも、なんとなくどんくさい曲、くらいに思っていたかもしれない。

 それが 「この演奏を聴かねば話にならぬ」 「この曲の真価はこの演奏でなければ分からない」 くらいまでエスカレートした論調になると、まずい。それはあまりにも作品自体の力というものを軽く見すぎているし、入門者が初手から名曲名盤主義に偏重しすぎることは、そういう危うさをはらんでいるんじゃないかと思う。

 たいてい、ある程度まで深入りすると、自然と興味関心は演奏家に向けられていく。その段階までは選り好みせずいろんな指揮者でいろんな曲を手当たりしだいに聴きまくって、そうこうするうちになんとなく自分好みの演奏家も出てくるだろうから、そこで初めて参考程度に名盤ガイドに目をとおしてみる。ぼくはそういう聴き方をすすめたい。

 なぜなら、ぼく自身がそういうのとは真逆なアプローチでこじらせていたからで、今までも幾人かの知人に 「クラシック聴いてみたいんだけど何かおすすめ教えてよ」 と言われたときも、自分がやってきたその方法論、曲そのものよりも、この演奏のここがすごいんだ、なんて講釈を打つような薦め方をしてきたもんだから、誰ひとりクラシック音楽の世界に引き入れることは叶わなかった。若かった。黒歴史だ。

 ディスるのは趣味ではないのですが・・・第九の神盤として (さすがに昔ほどではないにせよ) 今も崇め奉られるバイロイトの第九。もうちっとも良いと思わない。あんな録音をファーストチョイスに推しては、好きになる人も好きでなくなってしまう。終楽章の合唱なんてひゃーひゃー言うだけでとても鑑賞に耐えうる代物じゃないもの。

 第九とか、ワーグナーとか、マーラー (はよく知りませんが) とか、大編成の器楽と声楽が聴きものな作品は、何かの間違いでマクシミアンノ・コブラ指揮のCDをつかみでもしない限り、ともかく最初はまず新しい録音で聴くべきで、ヒストリカルを掘るのはその楽曲にじゅうぶん親しんだそのあとでいい。昔こんなすごい演奏があったんだというように。

 だからクラシック音楽に入門したい人のためには名曲名盤本なんぞよりも 「最初に買ってはいけない迷演珍演ガイド」 のほうがよほどためになるし、需要もあるような気がする。

 ぼくは自他ともにウザがられるカルロス・クライバー信者であるけれども、いつまでもベートーヴェンの運命の推薦盤にクライバーでもないだろう、という思いはある。

 そもそもYoutubeにこれだけの音源 (それがリーガルかイリーガルかは別の話として) が溢れかえっている現在、この曲の名盤はこれだこれを買えというような時代では、残念ながらもうない。

 だいたい、いまどきオビの 「レコード芸術特選盤」 の印につられてCDを買う層なんてどれくらいいるのか。 「大丈夫、ファミ通の攻略本だよ。」 と同じくらいのブランドイメージしかないぞたぶん。

 クラシックファンなら誰しも経験があるように、評論家が異常に絶賛しているCDを買って実際に聴いてみたらなんだ大したことないじゃん、ということはままある。そのとき 「いや、あの人がこれだけ褒めているんだ。きっと自分が聴きとれないだけですごい演奏なんだ」 などと卑下する必要はまったくなく、自分がしょうもないと感じたらそんな演奏は容赦なく黙殺してさっさと売りとばせばいいだけの話だ。

 その逆もしかり、自分が本当に好きな演奏は心の中の宝物になる。それを評論家や他人がどう言ったって、うるせえと一蹴すればいい。

 評論家の許光俊さんは佐村河内氏のアレを絶賛していたことですっかりお笑い草にされてしまった。だから 「私は善意で紹介した、それで騙されたなら仕方ない」 などと書かず、 「俺は実際いいと思ったんだ、文句あるかこの野郎」 とはっきり言えばよかった。代作であろうと手垢にまみれた手法の作品であろうと、自分が感動したならその気持ちを大事にすればいいんだ (ちなみに氏が佐村河内について書いたコラムは今でも消されずにHMVオンライン上で読める。それはそれで潔い姿勢だと思う) 。

 クラシックの名曲名盤主義とはようするに多数決の論理、AKB総選挙とか、ジャンプで連載が軌道に乗った作品が巻頭カラーでやるキャラクター人気投票みたいなもので、ネタとして楽しむのが健全であり、真に受けるものではない。1位のキャラに 「みんな応援ありがとう!」 と言われたって、だからなんやねんという話。

 いずれにせよ作品や演奏は時代の淘汰にさらされて残るべきものは残り、消えゆくものは消える。その時代による淘汰も、多分に多数決や資本主義の論理がはたらいているものだろう。しかしそれは種としての人間の存続と、ぼくという個体の人生との関連と同じく、個々人はただ自分がいいと思うものを愛好する。幸せになる道はそれしかない。

 ぼく自身、今では同曲異演への関心は明らかに薄れている。すでに持っている曲のCDを (演奏家が違うとはいえ) 重複して買うよりは、まだ知らない、聴いたことのないモーツァルトの曲を買いたい。モッちゃんの全作品を聴きとおすだけでも、おそらく人生の残り時間はかつかつなんだ (不治の病に冒されているわけではありません) 。あとはどんなに長生きしてもバッハ、ベートーヴェンブルックナーでもう十分タイムアウトだろう。聴き比べをやっている時間はもうない。急がなきゃ。

一足飛びに時代を前進させた、英雄という名の英雄

 あるバンドがメジャーデビューしたとする。ファーストアルバムはオーソドックスなロックのスタイルを踏襲しつつところどころ実験的な試みも盛り込み、荒削りながらもみずみずしい初期衝動をかき鳴らして見せた。

 続くセカンドアルバムもファーストの音世界を技量・楽曲の両面においてさらに研ぎ澄ませ、ただならぬバンドの力量と成長を予感させるに十分な傑作となった。

 そして満を持してのサードアルバム。ファンはファーストとセカンドの延長線上にある作品を期待するだろう。ところがそこで示された音は今までとはあまりにも違う、前2作とは桁違いのスケールをもった、しかし間違いなくこのバンドにしか成し得ない作品としか言いようがないものだった。評論家は絶賛した、ロックミュージックの歴史はこのアルバム以前と以後ではっきり分かたれるだろう――と。

 以上は架空のロックバンドの物語で、ここからはベートーヴェンのお話。彼は3番目となる交響曲で自らのキャリアを大きく飛躍させるどころか、西洋音楽史上の大転換点となる作品を書いた。

 交響曲第三番変ホ長調作品55「英雄」。「エロイカ」って言う人は自称通。

 「もしベートーヴェン交響曲の作曲を二番までで終えていたら、音楽の歴史はまったく違ったものになっていただろう」とよく言われる。もっとも、たとえ三番でなかったとしてもいつかベートーヴェンはこの曲を作った。ただ二番から見てあまりにも大化けしているがゆえにである。それは確かに頷ける。

 何がそんなに革新的か。とりあえず長い。交響曲は30分くらいが平均だった時代に、この曲はおよそ50分もかかったもんだから聴衆は面食らった。テンポの遅い指揮者が第一楽章の反復指示を実行すると、トータルでゆうに1時間を超える。しかし次から次へと聴きどころが押し寄せるのでまったく退屈しているヒマがない。

 いや改めて聴けば聴くほど、本当に「英雄」はすごい。何十回聴いても新たな発見があり、興奮があり、感動がある。

 第一楽章はこの交響曲の核をなす、有名なアレグロ・コン・ブリオ。さてみなさん。英雄というタイトルから壮麗雄大なオープニングを想像されることかと思われるが皆さんの頭の中で鳴っているそれはピアノ協奏曲第五番「皇帝」だ。「英雄」の出だしは拍子抜けするくらいあっさりで、変ホ長調の和音がバン! バン! と2回続けて鳴ったかと思うと、なんだか間の抜けたような調子の第一主題がいきなり始まる、ダサさスレスレの開始。この第一主題のメロディはありとあらゆる形に分解と結合、生成発展を繰りかえし、楽章全体に生き物のような有機性をまきちらす。

 連続して叩きつけられる謎の不協和音。なぜか突然センチメンタルになる木管楽器。笑っていたかと思えば怒り、次の瞬間には穏やかさがにじむ。最初ノホホンと聞こえた第一主題はいつのまにか大きなうねりとなって天空を駆ける。多彩で賑やかな変化に富んだ音楽。

 そして意外なことに? この第一楽章は、三拍子である。

 ぼくが「英雄」というテーマで曲を書くとして(書けませんが)、まず三拍子は採用しない。やはり舞曲のリズムであるし、ずんずん進撃していくというよりは緩やかに浮遊しているようなイメージ(ブラームスの二番のような)があるから。ところがそこは楽聖ベートーヴェン、この曲は三拍子で驚くほどの推力を生み出している。

 第二楽章は大規模な葬送行進曲。この楽章は聴きはじめの人にはちょっとつらい。ぼくも長らく苦手だった。聴きどころが分からなかったのだ。だいぶ後になって、分かった。第九でもそうであるように、ベートーヴェンの長大アダージョは、ラスト3分に最大の聴きどころがやってくる。

 スコアで言うと209小節以降、上のフルトヴェングラーの動画で29:14から先が、この葬送行進曲のおそるべき核心部分である。

 はっきり申し上げると、ここより前はまだ人間世界(葬送が行われている)であり、ここから先は冥界の音楽(死んだ英雄の目線)になる。いきなり音楽が青白くなるのだ。体温がなくなってしまったかのように、オーケストラはひんやりした響きに覆われる。そして最後の最後、寒気がするような木管のピアニシモ(32:00と32:12)。どう聴いても三途の川の向こう側です。本当にありがとうございました。

 ここまで聴いて、ある疑問が頭に浮かぶ。第二楽章ですでに英雄が死んでいるのなら、後半ふたつの楽章はなんなのだ。その答えは単純にして明快、第三楽章と第四楽章は在りし日の英雄のOMOIDE IN MY HEADを描いた音楽である。

 第三楽章はこの交響曲の中でいちばん気楽に楽しめる。まだ自分が死んだことに気づいてない英雄が夢見る野戦の勝利といった趣か。A-B-Aのシンプルな三部構成で、中間部分のBでは名高いホルン三重奏が鳴り響く。

 第四楽章でいよいよ自分が死んでいたことに気づいた英雄は過去を回想する。幼少期から少年期、青年期から壮年期を経て、はたして老年にまで至っていたのか否か、それは分からないが、波乱にみちた生涯をなぞるようにめまぐるしく音楽は流転し、そして約7分が経過したところで、突然静まりかえり、猛烈に感傷的なセピア色の風景が流れはじめる(46:20)。

 甘美な思い出。戻りたいけど戻れない過去。ずっとイケイケ超人で突き進んできた英雄がここへきて、ついに人間らしい弱みを吐露するのだ。この部分はいつ聴いても、うるっとしてしまう。

 しかし英雄という強者に、やさしさに包まれながら眠ることは許されない。多くの人を救いはしたが、同時に多くの人を殺めてきた。最後には魂の孤独という悪魔の国が口を開けて待っている(安吾)。悲痛なトランペットのフォルティシモが、その最期を生々しく描写する(50:24)。ここの金管はホールを切り裂くくらい思いっきり鳴らしてほしい。

 そして長大な交響曲は、やけくそのようなどんちゃん騒ぎで幕を閉じる。英雄が死んだって世界は何も変わることなく、人々は今日も起きて働いて食事して酒飲んで踊ってセックスして寝るのだ。

 終結部分は指揮者泣かせの難所として名高い。最後のパン、パン、パーンという三つの和音、スコアで見ると八分音符、八分音符、四部音符。これを楽譜通りに演奏すると、パン、パン、パァン…と最後の音が非常にヘボい感じになってしまい、客席が盛大にずっこけるので、多くの指揮者は最後の四分音符を長めに鳴らすか、開き直って八分音符にしたりする。あるいはフルトヴェングラーがやっているようにテンポを落として音価を長く感じさせる奥義もあり、腕の見せどころだ。なぜベートーヴェンはこんな中途半端な音の配置にしたのかって? そうだねえ…「満たされなさ」を表したかったのかなあ、なんて思う。ラストの一音まで聴き逃せない、本当に大傑作ですぜ。

モーツァルトの虹色のメロディ。

中学高校時代、まだクラシック音楽を聴き始めのころ、宇野功芳氏が折にふれ「いちばん好きな作曲家はモーツァルト」と書いているのを読んでは、「モーツァルトの何がそんなにいいんだよ」と思っていた。

なるほど小ト短調交響曲などは十代の感受性にもそれなりに訴えかけてきたものの、ベートーヴェンの激情、ブルックナーの宇宙、ワーグナーのスペクタクルに比べてモーツァルトはいかにもスケールが小さく、どの曲もなんだか似たような、明るいけど軽い、軽食みたいな音楽としか感じられず、したがってCDプレイヤーにその作品が乗る機会も少なかったのだった。

時を経て30歳になるころ、はたしてぼくのいちばん好きな作曲家はモーツァルトになっていた。

それより少し前、個人的に悲しいことがあって泣きながら毎日を送っていた時期になんとなく聴いていたモーツァルトの、いっけん明るいその音楽の中にふと聴こえる大きな悲しみと途方もない慈しみが、まさに自分の心境と共鳴して、大げさでなく魂が救済されたような気持ちになったのだ。

上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」。モーツァルトの明るさとは、そういうせいいっぱいの明るさだった。

魔法のような転調をたたみかけながらきらきらと七色のニュアンスをふりまいて去ってゆく音楽。今回は、2分半でその虹色のメロディを堪能できる超有名アリア「恋とはどんなものかしら?」を聴いてみましょう。

なぜ初音ミク版を貼るかというと、旋律そのものの色彩の妙を聴くのに最適だから。ほっとする変ロ長調で始まったメロディは1:00のBメロ(?)で朗らかなヘ長調になり、1:27で少しだけ短調の影が横切るもすぐ1:31でホワンとした変イ長調に転じ、1:47で不意にほの暗いハ短調に変わり、浮遊する感じのまま2:01でト短調に着地、そこから静かに昂ってくる感情とともに変ロ、変ホ、ハ、ヘ、ニ、ト、と一瞬のうちに駆け巡りへ長調に着いて、さいしょの変ロ長調に戻る。そのあと2:42でちょっとト短調になるところなんてすごくポップ。

当然ながら人間の声で歌われるとさらにさらに良い。

ぼくはこのアリアを晴れた日に散歩しながらよく歌う(適当イタリア語ではあるが)。歌えば歌うほど、こんな単純なメロディに千変万化の心の移ろいを込めたモッちゃんへの愛はふくらんでゆく。

ちなみに多くの人が書いていますがこのアリアが歌われる『フィガロの結婚』というオペラのラスト3分はやばい。落涙必至の、人生の終わりにかけてもらいたい音楽。

さいごは考古学者として砕け散った男

※ネタバレ全開です。未見の方はご注意ください。

※ネタバレ全開です。未見の方はご注意ください。

大事なことなので2回言いました。

なんとはなしにインディ・ジョーンズシリーズ第1作である『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』を見返したりしているんですが、そのクライマックスシーンにおいて子供のころは気づかなかったことに最近気づきました。

このお話はご存じのとおり、モーセの十戒石板が納められているとされる「アーク《聖櫃》」をめぐって主人公の考古学者インディとナチスドイツが熾烈な争奪戦を繰り広げる大冒険活劇で、インディのライヴァル的存在としてベロックという考古学者が登場します。

ベロックはインディが命がけで見つけた宝を横取りばかりしている嫌な奴で、ナチスのアーク捜索をも主導し、彼らに先がけてインディが地下遺跡で発見しようやくのことで運び出したアークも、あっさりとベロックの手に落ちてしまいます。

その後、インディはアークの奪還に成功するものの、再びナチス部隊による襲撃を受け、インディはヒロインであるマリオンとともに捕われの身となり、アークはベロックの主宰によるユダヤの儀式において、ついにその蓋が開かれます。

最初は砂が入っているのみと思われたアークでしたが、ほどなくして中からは無数の精霊が飛び出してきたのです。精霊たちは自分たちの封印を解いた者の意図を探るように辺りを飛び回ったあと、怒りの形相へと変貌します。

同時にアークからはもうひとつ、火の玉のようなものが立ち上り、そこから発せられた光線はナチス兵を一人残らず貫通し、祭壇の上、アークの間近にいたベロックと、ナチス高官ディートリッヒ、ゲシュタポ工作員トートの3人はその炎に焼かれ、無残な最期を遂げます。

ちな博識のインディは「一部始終を見なければ大丈夫」ということを知っており、一緒に目を閉じていたマリオンとともに難を逃れたのでした。

アークが開かれるこのクライマックスの場面はもちろんCGなど使われておらず、すべて光学合成による特殊撮影ですが、いま見ても非常に見応えのあるスペクタクルになっています。悪の御三家であるベロック、ディートリッヒ、トートは特に手の込んだ、印象的な死に様を見せつけてくれます。で、ぼくが今回見なおして思ったのは、終始、ベロックがすごい嬉しそうなんですよ。

美しい女性の顔をした精霊が怒りの表情へと豹変(この顔は本当に怖い)すると、ディートリッヒもトートも恐怖のあまり硬直して悲鳴を上げるだけなのに、ベロックは恍惚としたままだし、アークから出てきた炎に包まれた後も、砕け散る瞬間までずーっと嬉しそうなんです。

なんなんでしょうかこの人。Mにもほどがあります。

そして気づきました、敵役ながらベロックもまたインディと同等か、あるいはそれ以上に純粋な考古学者だったのだと。

探し求めていた伝説のアーク、彼はその禁断の蓋を開けたことにより、神の怒りにふれ、神の炎に焼かれて死ぬ。ある意味、これ以上に考古学に殉じた最期があるでしょうか。

あたり一面を飛び回る精霊たちを見たベロックは、彼以外の全員が恐怖と不安の入り混じった表情を見せる中、ただ一言 "beautiful!!" と叫びます。テレビ版の日本語吹き替えだと「素晴らしい!!」になっていたので、ぼくはそのときはベロックの考古学にかける情熱に気づきませんでした。美しかったのです。彼は「ベルリンに持っていって総統の前で開けたとき中が空っぽだったでは済まない」と理由をつけてこの儀式を強行しました。でも本当は総統なんてどうでもよかったんでしょう。

ただ純粋に考古学の徒として、アークの中が見たかったんです。そして中を見た結果、おそらくこうなるであろうことも彼は分かっていたような気がします。

インディが目を開けたときにはすべてが終わっており、ただアークがそこに鎮座しているのみでした。インディはアークの中身を見ていません。ベロックは、命を代償にその全貌を目撃しました。果たして考古学者としてどちらが本懐を遂げたのか、その判断はここではやめておきます。